「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『小熊山古墳』は『崇神天皇陵』と考えられます。

2014-07-01 | 古代史

最近、田主丸に棲んで居られたと考えられます竹野媛(豊姫)から生れた彦湯産隅命の事を考えて居ります。

このお方は、古事記に於いては、開花天皇の皇后は丹波竹野媛(尾張氏)(伊香色謎は『妃』とされています)で、その子である彦湯産隅命は天皇になる筈でありますが、其の後の記述がなく行方知れずであります。

日本書紀にては後から娶った伊香色謎(物部氏)を開花の『皇后』にして、崇神天皇を生んだとし、先に娶った竹野媛は『妃』であると述べており、竹野媛の子である彦湯産隅命の其の後には何も触れておりません。

如何も、日本書紀の記述には捏造が感じられます。

開花天皇が3番目に娶る和邇氏の姥津媛は、わたくしの説での解釈では竹野媛と同じく田主丸に棲んで居た事になっており、彦坐王も彦湯産隅命・景行天皇も同じ田主丸地区で育った事になります。実は、わたくしには此の彦坐王と彦湯産隅命と景行天皇は同一人物に想えるのであります。

日本書紀にては、彦坐王と息長水依比賣命の間の子である丹波之道主命を『彦坐王の子とも、彦湯産隅命の子とも謂う』と曖昧に述べてあり、「此処が違っていますよ」と謂う暗示が感じられ、編纂者の良心の呵責を感じます。

と謂うことは、姥津媛(和邇氏)は竹野媛(尾張氏)の事になりますが、姓氏が違います。しかし、由布院に棲んで居た和邇氏元祖の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の嫁である『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)は尾張氏であり、このブログのきっかけに為った耶馬渓の雲八幡神社の宮司である秋永勝彦(息長氏)さまのご先祖も、応仁の乱時に武田氏(建田氏)=尾張氏と伴に行動をしており、古来より息長氏と和邇氏と尾張氏は関係が深いと考えられます。

もし、この様なわたくしの考えが正しければ、近畿纏向を造った大王は『彦坐王』が『彦湯産隅命』・『景行天皇』でもでも有った事になります。

どの様な理由にて、長男で有ったと考えられる『彦湯産隅命』(彦坐王)が勝山黒田に移動して、その後、《孝霊天皇》として中国地方や近畿地方に移動したのかが、崇神天皇との関係上で疑問が残りますが、『彦湯産隅命』(彦坐王)は崇神の子である活目入彦命(垂仁天皇)を纏向に呼び寄せ『狭穂媛』と結婚させていますので、良好な関係を持って居たものと想われます。

と謂うことは、如何も崇神天皇は近畿纏向へは行っては居らず、倭(北部九州)にて亡くなったものと考えられます。

そう謂うことであれば、『崇神天皇』の墓は九州に在る。とも考える事ができます。

わたくしの2012年3月30日のブログ『崇神天皇が豊鍬入姫命に天照大神を託した理由が明らかになりました』では、次のように述べています。

 

国宝の「海部氏」系図では建田勢命の子として、大倭玖邇阿禮姫が建諸隅命の兄妹?として記入されています。大倭玖邇阿禮姫の父が建田勢命になっています。そして、建諸隅命の子の日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)の子として大海媛{葛城千名媛・八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)}として記入されています。

 

また、一方『おとくに』さまの尾張氏概略系図にては、建宇那比の子として、建諸隅と兄妹として大海姫(葛木高名姫)が記入されています。そして、尾張氏詳細系図では、大海姫は師木の瑞垣宮(=久留米市大善寺玉垂宮)に居たと考えられる崇神天皇との間に大入杵命・八坂之入日子命を儲けています。この八坂之入日子命は岐阜県可児市へ渡っておらず、日田市美濃で八坂入姫と弟姫を儲けています。

また、日本書紀にて、{崇神天皇は紀伊の国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしめひめ)を妃(側室)として豊城入彦命、豊鍬入姫命を生んだ。あるいはこの妃は、大海姫の娘の八坂振天某辺とも謂う。}

となっており、豊鍬入姫命の母は八坂振天某辺であるとされています。

大海姫(おおあまひめ)は系図上にて矛盾があり、この事をどのように考えれば善いのか一考を要します。

建諸隅命を父に持つ日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)は竹野姫(豊受姫)の兄で、由布院で生まれたと考えられます。そして、日本得魂命の子が大海姫です。

 

わたくしは、系図上の問題とは別に、大海媛(の娘)が八坂振天伊呂辺である。と記入されている事に注目しました。もしも此の事が本当であれば、大海媛は杵築市に居たと考える事が出来ます。杵築は海部氏・尾張氏・紀氏の拠点であり、八坂・宮司・大神・真那井の地名が見受けられます。おそらく、八坂の名前の発祥は此処から広まったものでしょう。八坂振天伊呂辺は九州での痕跡と捉え、八坂入彦命も、九州と捉えるべきです。

 

と、述べており、『大海媛』は杵築市に居た事になっており、崇神天皇は杵築へ『通い夫』として久留米の城島(しき)より往来をしていたものと考えられます。

 

杵築市に在ります『小熊山古墳』は4世紀前半の前方後円墳とされ、朝顔形埴輪やヒレ付き円筒埴輪が発掘されており、首長墳墓としては近畿王権(彦座王)や吉備古墳(彦坐王《孝霊天皇》の子が吉備津日子命)との結びつきが強く考えられており、研究者には天理市柳本町に在ります『行燈山古墳』が崇神天皇の墓所と考えられておりますが、後方円墳部が三段になっており、墳墓の形が『小熊山古墳』酷似しており、之(行燈山古墳)は後に『垂仁天皇』が近畿で造り直したものと考えられます。

 

わたくしには、此処『小熊山古墳』に眠って居られますのが『崇神天皇』の実体であろう。と考えられます。

 

 

 

 

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