酒田市名誉市民・セイコーエプソン名誉相談役・故中村恒也氏を偲ぶ会が酒田市内で行われた。氏は酒田市が誇るモノづくりの天才である。
昭和57年、酒田市は住軽アルミが撤退し、産業構造の変化で臨海工業地帯はピンチで意気消沈していた。当時の相馬大作酒田市長は酒田大火の傷も癒えぬ中、東奔西走し内陸型工業への誘致に動いた。
タナシン電機、助の靴下などと、本命だった酒田市出身の中村恒也氏が当時副社長だったセイコーエプソン株式会社への働きかけがあった。中村恒也氏は上野酒田東高等学校校長の娘さんと結婚されている。当人は勿論、相馬さんも酒東との縁もあり、強烈なアタックだったと聞いている。上野校長は、中村恒也さんと一緒にとられる朝食の度に「酒田に頼む」と応援をしてくれたと相馬さんの後日談を聞いている。
昭和60年、祖父の新盆に来られた相馬市長は帰り際「クジラを釣って来た」とポツリ。セイコーエプソンが酒田に立地が決まった瞬間だった。苦労が実った瞬間でもある。深い松林の中への工場建設、しかし、松の木は切らない。そして目立たないが基本。潮風が吹く臨海部に精密工業はタブーである。そこは中村氏の精神が生きてくる。自動巻き腕時計やクオーツ時計、フロンレスものづくりなど、世界的情報機器メーカーの先端を走り続けている。
東北エプソンには約2,500人が働いている。産業構造が重厚長大から軽小短薄へと変わり、情報機器メーカーのエプソンが諏訪から酒田への立地に、相当な技術的壁があったと思われる。潮風対策のフィルターはどんなレベルなのか分からないが、臨海部でも成功できる事実を示してくれた事は、酒田発展の大きなお手本である。