とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

回天の魁士「清河八郎」

2020年08月15日 | 日記

 最上川と立谷沢川の合流地点にスギ林が深い清川歴史公園がある。ここは江戸時代に「荘内藩清川関所」があった所で、庄内と内陸の交通の要所であった事が分かる。現在、川口番所と船見番所が復元されており、特に船見番所は西廻り航路で酒田港からの貨物を厳重に点検したと言われている。
 公園の南端に北楯大堰があり庄内左岸の田畑を潤している。北楯大堰は約400年前に狩川城主の北舘大学助利長によって開削された施設で、一日7400人の人夫を動員し、僅か4か月で10キロの水路完成させたと記録されている。平成30年に「世界かんがい施設遺産」に登録されている。
 隣接して清河神社があり清河八郎記念館がある。清河八郎は激動の幕末を駆け抜けた明治維新の魁と言われ、庄内が輩出した偉人である。尊王攘夷をかかげ明治維新を引っ張るも、幕府の刺客で34歳の若さで暗殺され、明治政府に加わることは出来なかった。
 清河八郎は清川村の庄内一の造り酒屋の長男として生まれている。18歳で江戸に出て最高学府の昌平坂学問所に入学。北辰一刀流兵法免許も取得している。
 寺田屋の事変後、幕府に「急務三策」の建白書が認められ「浪士組」を結成、将軍上洛の警護に当たる事になるも「我々の本分は尊王攘夷なり」と唱え、血判状を集め京都御所に提出し受理された。一緒だった近藤勇らは反発、新選組を結成し決別する事になる。
 回天を成し遂げた清河八郎だったが、無念の死を遂げる事となる。

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