Nonsection Radical

撮影と本の空間

2010年05月04日 | Weblog
某月某日
今日は神奈川・伊勢原駅周辺を徘徊したのだが、どうにも右手が痛くてカメラを持つ手に力が入らず、コンデジGX100だけで出かけた。
別に目当てがあって降りた駅ではない。
最近はいつもそんなパターンだ。
伊勢原は大山(おおやま)参りへの下車駅という事で、大山へ観光へ向かう人が多いのだが、当然のように大山とは逆の方面へ駅から向かったのはへそ曲がりだからである。
残念ながら新興住宅街が多くて、再び駅へ引き返し、大山方面へ向かった。
しかし大山へはバスで向かうほど距離があるので、徒歩ではたどり着かない。
あくまでも駅前シリーズ・伊勢原編である。
駅周辺は商業地や新興住宅街が多く、こういう場所の道は区画化されて真っ直ぐであり、効率的な反面面白味はない。
各家、各店舗も趣向を凝らした「個性」というものがない。
ちょっとした事であっても、飾り付けや主張などを盛り込んだ「個性」を出す意思がある人がいれば、それだけでその一角、その通り、その街が生き生きとするのだが、都会であっても田舎であっても、なかなかそういう場面に出会えない時代である。
そういうものを「確かに確認して、楽しみましたよ」という印にsatoboは写真を撮るのだが、年と共に感覚の鈍りがちなためか、「出会い系ハメ撮り盗撮」のモットーの始めである出会い系でまずつまずいて、そういう場面に出会わなくなっているともいえる。

区画された道を歩いて個性に出会わないと感じたら、横道にそれる事にしているが、今日も駅前繁華街を抜けると、それらしい生活道路へと入って行った。
古くからある道の場合、真っ直ぐではない。
今は舗装され、クルマも通る状態になり、古(いにしえ)のたたずまいをうかがう事は出来ないけれど、道が曲がりくねっているにはワケがあったはずなのだ。
地形的な問題である事もあるし、家々をつなぐために曲がっている事もあろう。
そういう道を歩いていると、角に古い道祖神が祀られている事も多い。
そこに道祖神があるのにも理由があったろうが、今はそれをうかがい知る事は出来ない。
石に彫られた文字も判読出来ない事も多い。
しかし判読出来る元号などをみると何百年も前というわけではなさそうだ。
せいぜい明治になる少し前ぐらいという感じだ。
神社仏閣にしても廃仏毀釈が起きる前のものなど非常に少ない。
つまり現存する古いものと言っても、そんなに歴史があるわけでない。
しかし道というのは意外と昔から変わっていない事が多い。
それだけ生活に密着して、便利だったり理由があるのだろう。

そういう道を歩くと、歴史が重なり時にはキッチュなものを創り出し、そこに面白味を感じてシャッターを切る事もある。
そこで生活する人には気がつかない面白さが積み重ねられているのを「発見」するのは、その地の人には迷惑な行為かもしれないが、「よそ者」には貴重な体験なのだ。
コメント (2)
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