Nonsection Radical

撮影と本の空間

温故知新

2011年03月03日 | Weblog
町内をブラブラしていると知らない場所が結構あるものだ。
もちろん時代とともにまったく変わり果ててしまった場所も多々ある。
そもそも田舎の人間など、生活範囲外の場所へ、たとえ町内でも無用に足を向ける事もないので、知らない場所があるというのも不思議でもないのだ。
それが「外」から帰ってきた人間だと、すべてが等価の場所になり、ドンドン知らない場所として入り込んでいく。
そして新たな見聞を広めるのだ。
といっても、歴史や地理に興味があるわけではなく、普段の生活文化に興味があるだけなので、たいして語る事もない。
こういう光景を見たというだけだ。
それでいいんじゃないかと思う。
写真は添え物の資料じゃないのだから。

こういう写真を撮っていると、大阪ではいくぶん肩身が狭い。
一般の大阪人にとっては、写真を撮るからには何か「価値」が、あるいは「何かが」あるからだという「価値観」があるようで、フォトジェニックだから撮るというのは理解不能な面があるようで、かなり警戒される。
警戒するに価するような人達ではないのだが(苦笑)、いまだ無用な無益な無駄な事に価値を感じる事(それを文化、ゲージュツ、遊びと呼ぶなら呼べるような事)は少ないように見受けられる。
こちらが無用な無益な無駄な事だと思えるテレビ情報に価値を置くのは東京(地方)よりも高いかもしれない。
驚くほどテレビの情報を共有化している。
そういう人達にとっては、写真撮影は取材の添え物か、怪しい行動のどちらかに二分されるようなのだ。
そういうわけで、通天閣や道頓堀でない、ワケのわからない写真を大阪で撮るのは胸躍るような、疲れるような不思議な気分となる。
コメント
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