Nonsection Radical

撮影と本の空間

地震の話も75日

2011年05月27日 | Weblog
何も進まず、何も解決せずに、現地では必死になって生きている人がいる一方で、テレビや新聞でだけ見聞きする人にとっては過ぎた話題となっている。
あるいは興味の対象が、被災して生活が激変しそれでも毎日の生活に追われ続けている人の姿から、自分の身に降り掛かる可能性のある放射能についてへと移っている。
NHKが他の原発への地震津波対応の番組を作るのも、他の地域の人へのニーズを取り上げていると言えようが、「地震」に対して特集しているわけではない。
あくまでも原発だ。
マグニチュード9という数字が、新たな基準で言うと、というカッコつきの数字であって、従来の基準では8クラスであるらしいのだが、そうなると他の地域でもあり得る地震規模と言えよう。
その規模で原発のないところで、どれぐらいの地震被害があるかという予想はこれまでもされてきたのだが、それが変更しなくても大丈夫であるのかは報道されたか。
電気ガス水道などの被害、食糧流通の予測、首都圏で歩け歩けだった帰宅難民、報道機関のあり方、政府自治体のあり方、検証しなければならない問題はたくさんあるだろう。
被災地となった地域の今後の生活援助のあり方、有効な自治体の姿、毎日を生き延びるのに助けとなる制度、人のあり方、備えなど現在進行形で考えていかなければならない問題は山ほどある。
そしてそれは誰か、あるいはどこかがするのではなく、各個人が自らの経験でもって行なっていかなければならない。
また私たちが得る情報というのが、今回の震災においても、かなりあやふやな、また意図的な、あるいは保身的なものである事が、その出所が政府や役所、学者、当該企業であっても、誰が考えてもミエミエな態度で出されたりして、検証なくて信じると馬鹿を見るという状態である事が確認できた。
もっとも身近な自治体であっても、たいした根拠もなしにイイカゲンな事を強制したりするのは、すみやかな献身的対応が行なわれている一方で、並列して記憶しておく必要がある。

原子力発電は安全でリスクの低い安価でクリーンな発電方法であると、今でもいう人がいる。
これは正しい。
ただ、確率的には低い「なにか」が起きた場合、危険でリスクの高い高価な発電方法であると「反対派」の人はこれまで言っていたわけだ。
その「なにか」が今回たまたま起きただけで、起きたら反対派の言っていた「想定」が実際のものとなっただけなのだ。
つまり事故は311に急に起きたわけでなく、すでに何十年も前から起きようとしていたのだ。
賛成推進派は、反対派がいうような事は起きるはずもないし、荒唐無稽な中傷誹謗だと言い続けてきたし、だからこそ「なにか」に対して対応を進めてきたわけでもなかった。
その結果、事故発生以来、反対派の人達が予想する発生原因対応の話が、推進派の政府、企業、学者のそれらよりも正確で予想通りで、現実的であるという皮肉な事になったわけだ。

ラジオで言っていたが、今回の震災で、本当の事を言ったら国民はパニックなると治世者達は思って情報を操作していたのだが、実際にはパニックになっていたのは治世者側で、やることがすべて場当たり的でその場限りの思いつきや、意味不明の発言行動などで国民を困らせた。
もちろんその片棒を担いだのはマスコミ報道で、矛盾している事を同時に伝えていたりして、いかに日頃から対応を決めていなかったのかがわかる。
高学歴集団であるにもかかわらず、意外に総合的に知識レベルが高くなかったりして、誰が考えてもおかしい話を平気で伝えたりして、バカを告白する恥さらしな事をしたりした。

そうやって直接的に、間接的にこの国に住む人の生活や考え方を変えてしまったのだけど、その中でまた明日朝になったら雨が降ろうが寒かろうが暑かろうが生きていかなければならない現実が待っているのだ。
コメント
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