Nonsection Radical

撮影と本の空間

文字という記録

2011年10月13日 | Weblog
家人が先日送った本多勝一著「アラビア遊牧民」を面白く読み終わったと言うので、次に「ニューギニア高地人」のリクエストに応えようとアマゾンを探した。
ついでに本多勝一シリーズを眺めていたら「中国の旅」という本があって、その「感想文」に中国のプロパガンダに乗せられたウンヌンというプロパガンダに乗せられた感想がたくさんある(笑)。

発売当時(1971年だっけ?)の中国と言えば当然開放改革路線前で(苦笑)、現在の北朝鮮での取材と同様あご足付きか、案内(監視)付きであった。
それは本多氏自身が記している事であるし、読む方だってそんなのは前提として当たり前と受け取っていた。
まだ日中国交正常化前の話だ。
そういうお膳立てされ、制限された取材の中で、どれだけ取材対象に迫る事が出来るかを問題にしていた事は著者自身が記していた事であるし、読む方もその行間を読み解く努力が当然必要とされた。
この本は事実確認をするために行った「旅」ではないのだ。
当時中国がどういう国であるか一般人は知らなかったし、それを知りたいという意欲もあった(人もいた)。
そうやって中国に興味を持ち、このような本を読み、その上で実際に中国に行って肌で知る、という事をしたいと思った(人もいた)のだ。

ルポ(ルタージュ)という手法で書かれたこの本を、事実か創作かと論議すること自体がルポというものを理解していない証拠なのだが、ひとつの話として理解し、時には実際に中国へ行ったりして、自分の目と耳と肌で確認していく事で、その度に自分の意識が上書きされていくというものだろう。
その事に躊躇していては歴史の流れの中で生きている意味がないではないか。
また、そういうことをせずに、ああだこうだと言っても、自分の身から出た考えにならないだろうに。

ある意味、40年も前の中国人の声を記して残してあるというのは重要なものなのだ。
当時の中国人民はどのように思い、どのように語ったかの記録なのである。
それを現在の視点でプロパガンダに乗せられて宣伝しているだけだというのは浅はかだと思う。
もうちょっと歴史的背景を頭のすみに置いて、この本を読んでいけば、別の中国の姿も見えてこよう。
そういう視点がない「感想」が多いのも、読者が出版当時の事を知らない若い人が多く、当時としては常識的なモノの見方が現在ではされなくなってしまったという事なのだろう。
実は、その点が一番驚いたのである。




魚津市火の宮町 Part2
コメント
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