Nonsection Radical

撮影と本の空間

アイドルはトイレに行かない

2013年02月27日 | Weblog
アイドル(偶像)が「隣のミヨちゃん化」したのはいつの時代からだろう。
バブルの時代に関する本を読んでいたら、AV(オーディオビジュアルではない)に関する項で、村西とおるがAVにおいて隣のミヨちゃんモデルの導入を図ったという記述があり、クロートの世界にシロートが参入した結果が人気に拍車をかけたという。
今回問題にする課題は、芸能界に関するものなのだが、別の世界と思われていた芸能人を身近な存在に変えたのもシロートの参入によってと思われる。
現在では、AKB48をはじめ普通の人が芸能界でアイドルという立場を得て人気を博しているわけだが、昔と異なるのは「スキャンダル」が下世話じみていて、やはり身近な感じがすることなのである。
”お泊まり”とか”不倫”とか。
ネットの発達により、”チクリ”もあるのだろうが、現在はアイドルをアイドル(偶像)としてとらえようとしない”民意”が根底にはあると思う。
しかし、それでイイのだろうか?
これが今日の話題である。
タモリは、吉永小百合はトイレに行かないと”断言”するのだが、それこそアイドルをアイドル足らしめる態度ではないか。
アイドルは巷の下世話とは無縁の理想の姿であるからこそ、アイドルに自分の幻想を投影して一時の幸せを感じることが出来るのだ。
アイドルの私生活に関知せず、ただひたすらにテレビ画面や映画スクリーン、グラビアページおいて理想の姿を鑑賞し、身の回りにはない特別な世界を噛み締めることが正しいファンのあり方であろう。
そこには幸せしか待っていないのだ。
だから一度引退したアイドルが、再びアイドルでなくなった姿でファンの前に現われるのはタブーなのだ。
その結果、あの天地真理(われらのマリちゃん)の偶像が崩れ去ったように、ファンの心に理想の世界などないのだ、という身もふたもない感慨を与えてしまうのである。
アイドルは表面的であるべきで、その中味を詮索するものではない。
またアイドルは中味を見せてはイケナイ。
成分表示を吟味してコーラを飲んでも美味しくないのだ。

そういうわけで、現在のところ、宮凬あおいタソと前田敦っちゃんは、トイレには行かないのである。




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