Nonsection Radical

撮影と本の空間

沼津にて14

2010年09月08日 | Weblog
祠があると必ず中をのぞいてみる。
そこに信仰をカタチにしたものがあると思うから。
手を合わせる事は決してないけれど、人々の思いを客観的に眺めるのは興味深い。
罰当たりにもこうして写真にも撮る事が多い。
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沼津にて13

2010年09月07日 | Weblog
不器用だからコンデジを使い始めるとずっとコンデジのまま、フィルムカメラを使うとそのまま、両方を交換して撮るという事が出来ない。
だから、ある地域ではコンデジで、また別の地域ではフィルムでと、両方のカットが重なる事が少ない。
よほど意識しないと持っている事さえ忘れている。
レンズも同様に同じモノを使い続ける事が多い。
基本的にものぐさなのだが、目がレンズの焦点距離にあったものを探しているので、他のものに目がいかないのだ。
したがって同じようなものばかり撮る事になる。
あとで、もっとあれやそれを撮った方が良かったと後悔するのだが。



マニュアルだとこうしてピントが合わせられるの図
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沼津にて12

2010年09月06日 | Weblog
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沼津にて11

2010年09月05日 | Weblog
沼津に着いて、カメラを取り出し、電気式水準器のスイッチを入れるがLEDが点灯しない。
電池が消耗したのだ。
韓国製のこの製品は日本メーカーブランドで販売されている。
何組かのボタン電池が最初から予備セットで入っていたので、ずいぶんサービスがいいなあと思っていたのだが、電池の消耗が激しいからかもしれない。
スイッチを切っていてもいつの間にか電池がなくなっているので、使わない時には電池を取り出していたのだが、取り出し用のテープが千切れてしまい、面倒だからそのままにしておいたのだ。
いつの間にか予備電池も行方不明になり、予備を持ってきていない。
さっそく駅前の富士急百貨店に入る。
ここに100円ショップが入っているのだ。
百貨店内に入るとズドーンともぬけの殻。
テナントがみんな撤退している。
潰れちゃうのかねぇ。
階上の100円ショップは営業していたが、特殊なタイプの電池だからか置いていなかった。

PCレンズを使うようになって水平を少しは気にするようになったのだが、今回は機械を頼りに出来ない事になった。
もともと首が傾いているので、いつも同じようにカメラも傾いている。
ファインダーを覗いた瞬間から、表示や傾きなど、ましてや写し出される(であろう)被写体などほとんど視ないでシャッターを切るので、あまりこの水準器も役には立っていないのだけど。
まあいいやと最近はなんでも思えるようになったのは、人間ができてきたのか、加齢で諦めが身についたのか。
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メディアの行く末

2010年09月04日 | Weblog
ネットで小沢一郎のインタビューを見た。
以前、だれか小沢一郎に話を聞きに行く者はいないのか、と言ったのが実現したわけで興味深く視た。
既存のメディア報道とは違い、垂れ流し、編集なしのインタビューであった事が重要なのだ。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど既存のメディアは「編集」という切り口で情報を提供するわけだが、どうもそのやり方が現在のニーズと合わなくなっているがしている。
知りたい事が出ていない、というのが一番欲求不満なのだが、それとともに、はたしてそれが「事実」なのかという疑問もある。
発言、行動を切り貼りして一つの流れを作っていないのか?
そういう疑問がわいてくる。
メディアは情報を提供するという働きとともに、特定の情報だけを提供するという事も出来るし、実際そうしている。
ニュースであっても、それが事実であるかは、その場にいた者でなければわからないし、又いたとしても自分の立場で見ている事もある。
そういう事を踏まえた上でもニュースや情報を得てきたわけだが、現在では既存のメディアで判断を下すのは難しいと思うようになってきた。
なにもメディアから、こういうように物事を考えなさい、と言われる筋合いはないのだ。
判断はあくまでもコチラが下す。
そのための情報を寄越せと言うのが我々の立場なのだ。
だから出来るだけ色々な方向から見た情報が欲しいのだ。
その情報の一部として今回のネットインタビューには可能性を感じたのだ。
その可能性は、垂れ流し、編集なし、という事にあると思う。
誰かが、今回のインタビューに田原総一朗を加えろなどと書いていたが、それは既存の手法なのである。
仕切り役など入らないのだ。
方向性を持たせる必要はないのだ。
小沢一郎に思っている事を話させればイイのだ。
インタビュアとしてそういう点で今回は注文もあるが、脱線をしつつも、これまで我々が訊かなかった話を語ったと思う。
それをどう判断するかは我々自身なのだ。
誰もが自由に見聞きしている事を踏まえて発言するというのは、小沢一郎自身にも新たな影響があったのではないかと思う。
また我々にも影響があったのではないか。
そして一番影響があったのは既存のメディアであろう。
編集前の情報が垂れ流しで世間に出回るのは既得権の侵害であろう。
そこに価値が見いだせる。
今後新たなメディアとして垂れ流し編集なしの「番組」を期待したいものである。
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