ネットで小沢一郎のインタビューを見た。
以前、だれか小沢一郎に話を聞きに行く者はいないのか、と言ったのが実現したわけで興味深く視た。
既存のメディア報道とは違い、垂れ流し、編集なしのインタビューであった事が重要なのだ。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど既存のメディアは「編集」という切り口で情報を提供するわけだが、どうもそのやり方が現在のニーズと合わなくなっているがしている。
知りたい事が出ていない、というのが一番欲求不満なのだが、それとともに、はたしてそれが「事実」なのかという疑問もある。
発言、行動を切り貼りして一つの流れを作っていないのか?
そういう疑問がわいてくる。
メディアは情報を提供するという働きとともに、特定の情報だけを提供するという事も出来るし、実際そうしている。
ニュースであっても、それが事実であるかは、その場にいた者でなければわからないし、又いたとしても自分の立場で見ている事もある。
そういう事を踏まえた上でもニュースや情報を得てきたわけだが、現在では既存のメディアで判断を下すのは難しいと思うようになってきた。
なにもメディアから、こういうように物事を考えなさい、と言われる筋合いはないのだ。
判断はあくまでもコチラが下す。
そのための情報を寄越せと言うのが我々の立場なのだ。
だから出来るだけ色々な方向から見た情報が欲しいのだ。
その情報の一部として今回のネットインタビューには可能性を感じたのだ。
その可能性は、垂れ流し、編集なし、という事にあると思う。
誰かが、今回のインタビューに田原総一朗を加えろなどと書いていたが、それは既存の手法なのである。
仕切り役など入らないのだ。
方向性を持たせる必要はないのだ。
小沢一郎に思っている事を話させればイイのだ。
インタビュアとしてそういう点で今回は注文もあるが、脱線をしつつも、これまで我々が訊かなかった話を語ったと思う。
それをどう判断するかは我々自身なのだ。
誰もが自由に見聞きしている事を踏まえて発言するというのは、小沢一郎自身にも新たな影響があったのではないかと思う。
また我々にも影響があったのではないか。
そして一番影響があったのは既存のメディアであろう。
編集前の情報が垂れ流しで世間に出回るのは既得権の侵害であろう。
そこに価値が見いだせる。
今後新たなメディアとして垂れ流し編集なしの「番組」を期待したいものである。
以前、だれか小沢一郎に話を聞きに行く者はいないのか、と言ったのが実現したわけで興味深く視た。
既存のメディア報道とは違い、垂れ流し、編集なしのインタビューであった事が重要なのだ。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど既存のメディアは「編集」という切り口で情報を提供するわけだが、どうもそのやり方が現在のニーズと合わなくなっているがしている。
知りたい事が出ていない、というのが一番欲求不満なのだが、それとともに、はたしてそれが「事実」なのかという疑問もある。
発言、行動を切り貼りして一つの流れを作っていないのか?
そういう疑問がわいてくる。
メディアは情報を提供するという働きとともに、特定の情報だけを提供するという事も出来るし、実際そうしている。
ニュースであっても、それが事実であるかは、その場にいた者でなければわからないし、又いたとしても自分の立場で見ている事もある。
そういう事を踏まえた上でもニュースや情報を得てきたわけだが、現在では既存のメディアで判断を下すのは難しいと思うようになってきた。
なにもメディアから、こういうように物事を考えなさい、と言われる筋合いはないのだ。
判断はあくまでもコチラが下す。
そのための情報を寄越せと言うのが我々の立場なのだ。
だから出来るだけ色々な方向から見た情報が欲しいのだ。
その情報の一部として今回のネットインタビューには可能性を感じたのだ。
その可能性は、垂れ流し、編集なし、という事にあると思う。
誰かが、今回のインタビューに田原総一朗を加えろなどと書いていたが、それは既存の手法なのである。
仕切り役など入らないのだ。
方向性を持たせる必要はないのだ。
小沢一郎に思っている事を話させればイイのだ。
インタビュアとしてそういう点で今回は注文もあるが、脱線をしつつも、これまで我々が訊かなかった話を語ったと思う。
それをどう判断するかは我々自身なのだ。
誰もが自由に見聞きしている事を踏まえて発言するというのは、小沢一郎自身にも新たな影響があったのではないかと思う。
また我々にも影響があったのではないか。
そして一番影響があったのは既存のメディアであろう。
編集前の情報が垂れ流しで世間に出回るのは既得権の侵害であろう。
そこに価値が見いだせる。
今後新たなメディアとして垂れ流し編集なしの「番組」を期待したいものである。