Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

子どもの全能感

子どもの大きな特徴の一つに「全能感」というのがある。子どもは、(大人から見たら)小さな世界を生きているが、その世界の「王様」として存在している。子どもは自分の世界の中心であり、自分の世界を取り仕切る王様なのである。これは、小さな子どもとかかわる人であれば、誰でも経験し、知ることの一つであろう。言い方を変えれば、この世の中すべての出来事を自分に照らし合わせて捉えるのである。シュトロバッハさんも、離婚という親の事柄を子どもは自分の責任に置き換えて理解する、というようなことを言っていた。良くも悪くも、ありとあらゆる出来事を自分の世界の内で理解しようとするのは、子どもの大きな特徴であり、特権であるのかもしれない。

しかし、その世界の背景には、母親(あるいは父親)の存在がある。というよりも、欠かせない。あるいは、家庭の存在と言ってもいいかもしれない。子どもの全能感は、親や家族という支えがあって初めて可能になるようなものなのだ。どっしりとした家庭や家族の存在が子どもに保証されて初めて、子どもたちは己の全能感を発揮することができるのである。パパやママがボク/ワタシをしっかり見ていますよ、という合図があって初めて、子どもたちはそこから飛び出して、広い世界に飛び出すことができるのだ。それは、マーガレット・ワイズ・ブラウンの「ぼくにげちゃうよ」という絵本からもうかがい知ることができるだろう。主人公の子ウサギは、ただひたすら「ぼくにげちゃうよ」と母ウサギに呼びかける。しかし、母ウサギは子ウサギの言葉を大切に拾いながら、「追いかけていきますよ」と子ウサギに返事をする。ただそれだけの絵本なのだが、そこに「全能感」と「親という支え」の関連性が示されている。

子どもの全能感を考える上で、非常にそのことがよく示されている絵本がある。それが、「かいじゅうたちのいるところ」という絵本だ。ポーランドのユダヤ系移民であるアメリカの児童文学作家モーリス・センダックが36歳の時に書いた作品である。初版が1975年、現在ではすでに第98版となっており、根強い人気を博している。この本の主人公マックスから、われわれは「子どもの全能感」について深く理解することができる。マックスの母親は子どもの全能感とどのように向かっているのか。また、子どもの全能感とはどのようなものなのか。子どもと世界の関係性は大人のそれとどこが異なっているのか、など色々な洞察を得ることができるだろう。

大人は子どもの全能感を押し殺してしまってはいないだろうか。いや、それ以前にわれわれは、子どもの全能感そのものを認めているのだろうか。そして、子どもは(子ども自身の世界の中で)「王様」なのだということをしっかり理解しているのだろうか。また、家庭の中でこの全能感を発揮することのできない子どもに対して、教育・保育・福祉にかかわる専門家はどのようにかかわっていけばよいのか。問題山積だ。

(今月の第三日曜日の会で発表したレジュメより)

おまけ

有能感(sense of competence)との違いについてもっと明確にせねば。
→全能感は全子どもにみられる現象なのか。そして、先天的なものなのか?
→何歳くらいから有能感はみられるのか?
→大人にも有能感は内にあるものなのかどうか?
→(食後)「Aちゃん、食べたお皿もってきて」、「う~ん、もってきてあげてもいいよ」、「ありがとうね」、というのは全能感の現れと呼んでいいものなのかどうか。

色々と考えるヒントをもらった気がした。ありがとうございました!

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