小笠原の父島に来て、早五日目!
この小笠原の旅もいよいよ後半戦に突入です(´;ω;‘)…
楽しい時間は、過ぎるのが早い。早すぎる…😢
…
五日目の朝は、まずホテルの大移動から🎵
今回の小笠原旅行は、実は7月後半にぎりぎりで決まったんです。
1年前に一度小笠原旅行を計画していたんですが、コロナまん延でおがさわら丸の渡航が中止となりまして…。で、今年リベンジするぞ!と思っていたんですが、おがさわら丸のチケットが取れなかったんです。キャンセル待ちも80名ほどとあって、もう完全に諦めていました。
が、7月後半になって、小笠原海運から電話があり、「座席の用意がある」と告げられました。おそらく今年もコロナ感染爆発が起こり、ツアーの団体客のキャンセルが多数でたのでは?と思われます。
実際に旅行の計画を立て始めたのは、8月になってから…という急ピッチの準備となりました。ホテルも8月になってから予約することになり、昨年予約したホテルはどこもSOLD OUT。どこも「満室」という、絶望的な状況に。今回7泊する旅なんですが、7泊フルで空いているホテル(旅館、ペンション)はどこにもないんです。
で、前半の四泊と後半の三泊に分けて、ホテルの確保をしました。この日は五日目なので、ちょうど前半のホテルのチェックアウト日なんです。しかも、小笠原の場合、おがさわら丸が父島に到着するのが毎回11時なので、チェックアウトの時間もとても早いんです。一つ目のペンション(ISHI P')は、朝7時半頃がチェックアウトでした。
なので、朝7時半にはISHI P'を出まして、次の宿に荷物すべて持って移動しました。
後半の三泊のホテルは、【パパス・アイランド・リゾート】でした🎵
ISHI P'からパパス・アイランド・リゾートまでは、徒歩で2~3分なので、すぐに移動できました。
…
そして、8時半から、僕が心から行きたかった『戦跡ツアー』に参加しました。
小笠原は、太平洋戦争の影響を強く受けたエリアでした。
過去の戦争に向き合うのも、僕のライフワークです。(このブログでは、それこそ世界各地の戦争跡地・記念館等をレポしたり、強制収容所の現地レポを書いたりしてきました)
今回の戦跡ツアーでまず向かったのは…
ここです!
素敵な海ですね~~~。
え? でも、なんでここが「戦跡ツアー」の一カ所目なの?! 今日は別に海に行きたいわけじゃなくて、「戦跡めぐり」がしたいんですけど、、、
ガイドさん曰く、こここそ、小笠原にとってとても重要な場所なんですって。
ここが、小笠原にとって重要な場所?!?!
ただの林じゃん、、、?!?!
いえいえ、実は、ここは旧海軍の航空隊の飛行場
洲崎飛行場跡地
なんです!!
…と同時に、ずっと小笠原で議論され続けている【小笠原空港候補地】なんです。
小笠原空港構想は、ずいぶん昔からあるみたいですが、まだ何にも決まっていません。
かつての旧海軍の飛行場跡地であり、未来の飛行場の候補地でもあり…
ただ、<こちらのブログ記事>によると、厳密には少し離れたところが本当の飛行場跡地なのかな?!
いずれにしても、この洲崎エリアは、「過去」と「未来」を背負ったエリアであることは間違いなさそうです。
その当時、滑走路の長さは500mほどで、実際にここを飛行場として使うのは難しかったそうです。また、どんなに滑走路を延ばそうとしても、800mくらいにしかならないんだそうです。なので、もしここに「小笠原空港」を新たに作ろうとすると、海の方に埋立地を作らなければならないんです。
でも、この洲崎の海は、イルカにとっての「休息地」であり、また保護すべき魚やサンゴ礁なども多いそうです。空港建設は、人間としては「より便利」にはなるかもしれませんが、生物全般としては「代償も大きい」ということになりますね。また、空港ができれば、「明るい場所」が増えます。そうすると、ただでも絶滅が危惧されているウミガメがその明るさに引き寄せられて、本当に絶滅してしまうかもしれません。(それに、父島は「水」が乏しく、これ以上人が増えても、その人数に見合うだけの水の確保が難しい、という意見もあります)
これからは「ポストヒューマンの時代」です。人間を中心に考える社会設計ではなく、あらゆる動植物を中心に考える社会設計が求められています。もう「空港」の時代ではないのかもしれません…。
(*あと、この洲崎には、かつて「東京府立小笠原修斉学園」という感化院(児童自立支援施設)があったんです。この修斉学園については「社会事業過渡期における小笠原修斉学園に関する一考察」で検索を!)
続いて、こんな場所に連れて行ってもらいました。
これは、、、「防空壕」だったのかな?!
もう80年近く昔の壕なので、かなり朽ち果てていますが、、、
防空壕の中にも入ってみました。
ただ、この父島は、実際のところ「戦地」にはなっていません。
空爆はあったみたいですが、ここで地上戦は行われていなかったみたいです。
もっぱら激しい地上戦が繰り広げられたのは、南方にある【硫黄島】でした。硫黄島の滑走路は、現在のジャンボ機でも離着陸できるほどに長く、日本にとってもアメリカにとっても、重要な島だったんですね(B-29機(またP-51機)も硫黄島から飛び立ったのは有名な話です)。
ここは、【監視壕】ですね。
ここから、米軍の戦艦を監視していたんですかね?!?
今も、こういう監視をしている人が世界中にいると思うと、悲しくなりますが…
監視壕の壁には、謎の「跡」が残されています。
いったい何のために、何をするために、この跡があるのか?!
未だによく分かっていないみたいです。
こちらも、また別の防空壕?です。
ここからもまた、アメリカ軍の戦艦の監視を行っていたのでしょうか?!
どんな気持ちで、この場所で海を監視していたんだろうな…
って、ふと思いました。。。
そして、こちらは、【大砲】(高射砲?)ですかね!?
実際にリアルでみると、すごい重厚感です。
これを実際に使用したかどうかは分からないみたいです。
でも、この大砲を見ると、「日本も本当に戦争をしたんだ」ということを感じます。
僕自身も、完全にまったく戦争を経験していないんです。というか、もうこの日本に住んでいる人で「戦争」をリアルに知っている人(覚えている人)は、ほぼいないんですね。
だから、戦争について語れる大人になるためには、相当の勉強をする必要があるんですよね👆
武器というのは、100%、人間を殺す道具である、と。
もはや、洞窟のような「防空壕」?「居住壕」?です。
どうやら、ここで生活していた軍人が多数いたそうです。
そこそこ涼しさは感じられたかな?!
これは、…「貯水槽」??ですかね??
あるいは、炊飯場? 調理場??
どこか「生活感」があります。
ここは、「寝室」だったのかな?!?!
ここで生活できるだけの十分なスペースが広がっていました。
…
そして、最後に向かったのが、、、
こんなところです。
夜明山
という山です。
この夜明山エリアに、戦跡がいっぱいあるんです。
このあたりです。
父島のちょうど「胸」あたりの場所かな?!
ここは、ちょっと車がないとまずたどり着けないかな?!
歩くにしても、そうとう歩くことになります。
そんな夜明山の一角にありますのが、、、
こちらの高角砲であります!!!
十年式十二糎高角砲
というらしいです(参考元はこちら)。
かなり迫力がある旧日本軍の「兵器」です。
こんな大きくて迫力ある高角砲が島に残っているなんて、、、
こんなの、内地じゃ見られないですよ、、、
細かい部分も、こうやってしっかり見ることができます。
素人の僕にはまったく何が何だか分かりませんが、、、
でも、こういう兵器を作っていたんですね。
ツアーガイドのお兄さんの説明も、分かりやすかったです。
このお兄さんは、専門的には環境保護、みたいですけども…。
でも、分かりやすく説明してくれて、理解の助けになりました。
ガイドさんっていう存在も、すごく大事なんですよね。
こんな神秘的な壕内も写真におさめることができました。
これは、CDのジャケットとかにできそうです!!
まさに、暗黒のヴィジュアル系の世界だ、、、
この石製の採掘用道具なんですって。
この石器を使って、壕を掘っていたんですね。
なんか、すごく迫力と説得力がありました。
「こんな石器で、壕を掘っていたのか」、と。。。
これは、まさに「貯水タンク」ですね。
生きるために絶対に欠かせないのが水。
かつての旧日本軍も、水がなくて、苦しんだという記録がいっぱい残っています。
水がなければ、人間は生きていけない。
当たり前の話ですが、当たり前じゃない時代もあったんですよね。
…
こんな感じで、半日の「戦跡ツアー」に参加しました。
内地ではなかなか見ることのできない戦跡が見れたのはよかったけど…
サイパンやパラオ・ペリリュー島とかに比べると、少し地味だったかな。
実際に「地上戦」が行われていなかったというのもあるかもしれない。
でも、国内で、これだけの「戦争の爪痕」が見られる場所は貴重です。
そして、改めて強く強く思いました。「戦争は、誰も幸せにはしない」「戦争は、一般人を苦しめるだけ」「戦争は、一部の特権者たちの利益にはなるかもしれないけれど、僕らの利益には全くならない」、と。
来たる戦争のために備えるのではなく、戦争をしっかり回避できるだけの能力をもつ政治家を増やすことこそ、「二度と戦争を起こさせない」という理想の実現には欠かせないでしょう。かつての日本も、結局政治的な判断ミスや国際関係上のかけひきの見誤りなどによって、開戦となりました。同じ敗戦国のドイツも、ヒトラーのような愚者を国のトップにさせた国民の判断ミスこそ、絶対に繰り返してはいけない、と常々言われています。
今の日本も、複雑化し続ける東アジア情勢の中、アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、台湾、フィリピン、東南アジア諸国、オーストラリア、ニュージーランド等のリーダーたちとバランスよく付き合えるリーダーが必要なんですね。単に(盲目的に)「アメリカ万歳\(^o^)/」を繰り返すリーダーは(逆に)危険なんです。日本のリーダーの課題は、「日本の国益と領土、そして国民の命」を守ること。いたずらに(アメリカと考えの異なる)隣国を刺激することなく、どの国ともそれなりにうまく付き合い、どの国からも怨まれないようにすること(更に言えば、どの国のリーダーからも尊敬され、慕われること)が最も大事なんです。
***
さて、戦跡ツアーが終わったら、昼食タイム🎵
この日は、二度目となる【海遊】に行きました。
このお店は、今回の小笠原滞在中で一番通ったお店になりました。
この日は、名物のあれと、ここでしか食べられない驚きのあれを食べました。
この記事の次の記事を是非読んでみてください!!✨
…
午後は、、、
まさに【海遊】のすぐ裏手にあります、、、
小笠原ビジターセンター
に行きました。
この五日目は「お勉強Day」になりそうです🎵
このビジターセンターでは、この小笠原の歴史を学ぶことができます。
知らない事ばかりで、すごく勉強になりました。
ご覧ください!
はるか昔の「日本地図」です。
北海道がやたらにでかくて、長い!!(;^ω^)
ちゃんと、四国も九州も沖縄も朝鮮半島も載っていますね。
そこに、小さく「小笠原諸島」についても記載されています。
「無人嶋本名小笠原嶋ト云。八十余岐(嶋?)アリ」
と書いてあります。
こちらは、欧米人が作成した地図みたいです。
BONIN GROUP OF ISLANDS
って書いてあります。
Boninというのは、東京都環境局によると、「無人」→「ムジン」→「ブニン」→「ボニン」という流れで生まれた言葉みたいです。Boninという英単語は他にはなさそうです。
母島は、『Coffin Island』と表記されていたんですね。あのジェームス・コフィン船長の名前が当てられたのでしょうね。
この小笠原諸島の近代史は、「鯨の油」から始まります。
石油が使われる前の貴重な「エネルギー資源」だったんですね。
鯨の油が重要なエネルギー資源だった時代があったんです。
そして、島に最初に住んだのは、1830年、今もその子孫として有名なセーボレーさんなど25人の欧米系の人々でした。この25人の内訳がすごく気になりました。5人は欧米人らしいですが、じゃ、残りの20人はいったい誰?!って。
無人島だった小笠原に初めて人が住んだのは、1830年、欧米系の5人を含む25名だったんですね。
こんな絵も掲示されていました。
あれ、これって、母島のロース記念館で見た絵と同じだ…
父島に次いで、母島にも欧米系の人が住み始めていたんですね。
発見したのは、日本人だけど、住み着いたのは、欧米系の人たち、と。
そして、その住み着いた理由は、「鯨の油を求めて」といったところでしょうか?!
なんか「後だしじゃんけん」みたいな感じですが、、、
その後、日本がこの島々に入り込んでいったんですね。
すごくドライに見れば、これって、普通に「侵略」に近くないか?!、と。。。
日本もまた、この時、「鯨の油」が欲しかったのでしょうか?!
この時に活躍したのが、あの有名な「ジョン万次郎」だったとは…
この人はいったいそもそも何者だったのか。
詳しく知りたくなりましたね。
ジョン万次郎は、この時代になんと4回も小笠原に行っていたんです。
すごくハードできつい船旅だったんだろうな、、、
明治維新以後、次々に日本人移民が現れるのですね。
1911年には、人口4686人、子どもの数も728人になったんです。
就学率98%というのは、すごいことだけど、それが「国家教育」「軍国教育」として行われていたとすると…
この辺もすごく気になるところです。
こんなふうに、町中に子どもたちがいたんですね。
なんか当時のファッションがよく分かる一枚かも?!
はいからさんが通りそうですもんね。
扇浦に設置された内務省出張所。
扇浦にも、立派な町があったんですね。
このころの柳浦を、タイムマシンで覗きに行きたいなって。
この一枚から、子どもの自然の本来の力強さ、を感じます。
今の子どもたちが失った、「自然の子どものパワーとエナジー」を。
日本にも、こんなワイルドな子どもたちがいたんですよね。
そして、戦争へ…。
戦前の小笠原の人たちは、本当に豊かな生活をしていたんですね。
そんな豊かな生活を奪った「太平洋戦争」。
戦争が始まったら、「強制疎開」です。
住むところが戦地(要塞)となり、疎開という名の「難民」となるんです。
戦争が生み出すのは、死者と難民だけなんですよね。
そして、敗戦。
資源のない日本には、もともと勝ち目はなかった。
今となっては、そう自然に考えられますが、当時は誰も何も知らされていなかったのでしょう。
敗戦後の小笠原は、「アメリカ軍の占領下」に置かれ、日本人はそこから追い出されました。
ある意味では、19世紀前半の頃に戻った、とも?!
そして、1947年に、日米双方の色々な思惑もありつつも、日本に返還されます。
今回学んだのは、小笠原は、資源的にも軍事的にも「うまみ」がなかったから、ということでした。
領土問題というのは、その土地に「うまみ」がある場合に生じる、ということ。
「うまみ」のない土地については、奪い合いは起こらない、ということ。
硫黄島は、軍事的に「うまみ」があるから、今も一般の人は帰れない。
尖閣諸島は、潜在的な資源が期待されているから、日中台でもめている。
北方領土に至っては、軍事的にも、資源的にも、地理的にも「うまみ」だらけ。ロシアが「不要だ」と思うような場所ではない。つまり「うまみ」がいっぱいあるエリアだ、ということになります。
結局、人間のエゴ、物欲、利害、利権、損得が「領土問題」の根柢にあるのでしょう。
このビジターセンターでは、無料で様々な過去の動画を見せてもらえます。
あまりにも素敵な映像ばかりだったので、ず~っと見てしまいました。
平和記念の碑。
われ達 今 先の大戦中最も偉大なる戦斗の地 硫黄島に立ちて
弾尽き 水枯れるも 勇戦敢斗し 望郷の思いを残し…
…
この言葉に触れ、改めて思いました。
国家が狂いだし、戦争の道を歩む「判断」をすることで、「犠牲者」が生まれる、と。
だから、僕らは常に「国家」を監視し、狂いださないように注視し続けなければならない、と。
それでも、国の外部(隣国)から攻め込まれる可能性は未来永劫ある。
その時に、その外部の国々が攻め込んでこないように「交渉」できる優秀な人間が必要であり、また、そういう優秀な人間を選ぶことのできる国民の「目」が必要になる。
外部の国々の為政者たちに「日本に攻め込むのは得策ではない」と常に思わせるレトリックや高い人間性をもつ人が、この国のかじ取りを担わなければならない。そして、そういう人をしっかり見極める僕ら一般人の知性が求められる。
「硫黄島 散りて散らさぬ もののふの 心の桜 咲にほう島」
これは、【西大佐戦死の碑】に書いてある文章です。
散りて散らさぬ、とは、、、?!
もののふというのは、物部=武士=武人=武者=兵=戦士のこと。
これをどう理解するかによって、この詩の意味は大きく変わってきそうです。
…
そんなこんなで、数時間滞在したビジターセンター。
ビジターセンターにいる最中、突然、外から「ブォォォ~」という音が聴こえました。
「あ…」と思って、海岸まで走って行きました。
そう、8月17日は、ここ父島二見港からおがさわら丸が出航する日。
15時半ちょうどに、おがさわら丸は竹芝を目指して無事に出発していました。
前半中に出会ったほとんどの人がこの17日の便で内地に帰っていきました。
このおがさわら丸が竹芝に着いて、そしてまたここに戻ってきたら…
その時が、僕にとっての「お別れの時間」です。
…
そして、この五日目の夜は、、、
南国酒場COMO
という素敵な素敵なお店に行きました。
このお店で、偶然にも、僕の命の恩人?と再会するのでありました。
そして、ここでとても素敵なラーメンとも出会うのでした🎵
また、美味しいお酒をいっぱい呑んで、ふらふらしながら、ホテルに戻り、眠りにつきました。
なんて、最高に最高な日々なんだ…😂
…
まだまだ、旅は続きます✨
後半戦も是非お楽しみください!!!💖