今、どんどん「生活世界(Lebenswelt)」が破壊されているように思います。
生活世界は、科学の世界ではない現実のなまの世界。
今回の新型コロナウィルスの猛威により、「科学」の知識が僕らに一気に襲い掛かりました。
科学の世界はこんな世界。
一応ヴィジュアル的に分かった気にはなるけれど、誰も「実感」したことのない世界。
特殊な状況でなければ、決して見ることのない世界。
科学の知識(科学知)は、僕らの生活世界では「体感」できないもの。
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僕らは、経験的に、ウィルスを直に見たことはないし、これだけ「コロナ」「コロナ」と騒いでいるのに、誰も、そのコロナウィルスを見たことがないんです。
見てもいないし、触ってもいないし、体感したこともないウィルス(の情報=知識)に完全に振り回される僕ら。
そろそろ、本当に疲れてきました。もう「情報」にさえ触れたくないほどに…
科学界に振り回される生活世界。
マスコミもただコロナの情報を垂れ流すだけでなく、本当に必要な情報だけを精査して出してほしい。
いい加減、疲れました…。
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さて…
とても気持ち悪いのは、「科学的な研究」に僕らみんなが(無意識に)振り回されていることなんです。
科学的な研究から出てきた「言葉」「概念」に振り回されている、と言ってもいいかもしれません。
科学知というのは、万能ではないし、常に否定されるものだし、一般的な事柄(例えば人体の構造)に対しては詳しく説明できるけど、生活世界を生きる個々の人間ひとりひとりについては、何も語ることはしません。
あまりマニアックに(根源的に)「科学とは何か」を問うていない人ほど、「科学の知識は絶対だ」と思う傾向があると思います。科学者でない人ほど、「エビデンスは!?」とか言ってきます(「エビデンス」の根源的な意味も知らないで、ただの「データ」「実証データ」くらいの意味でしか、使ってないケースばかりです)。科学の世界の只中にいる人ほど、その当の世界の知識を最も疑っています。
科学的な知識は、個々のなまの人間(僕やあなた)については一切何も語りません。
人間一般の物質的な要素や人体の客観的な構造についてはいくらでもどこまでも語りますが、「僕」や「あなた」がどう生きているのかについては、完全に沈黙します。
科学は生活世界については語りません。
科学(Science)は、一般的な事柄、誰もがそうであるところの事柄、自他区別なく一般的な存在として、世界のあらゆる事象を説明したいのです。
「新型コロナウィルスが人体にどのように作用するか、どのような影響をもたらすか」、ということは、まさに科学(科学者)が得意げになって語りたい事柄です。
しかし、「このコロナ禍の中で、わたしやあなたはどう生きているか」については、何も語ることができません(しようとしません)。科学にとっては、「わたし」や「あなた」というなまの人間はどうでもよいのです。「あなた」がどう生きようと、それは個別の事柄であり、科学にとっては「どうでもいいこと」なんです。
テレビや新聞やその他のメディアを見ると、今や、科学者たちがあれやこれやと得意げになって一生懸命「説明」しています。
でも、その「説明」をいくら聞いたところで、またそれを理解したところで、「じゃ、どうやって生きればいいんだ?」ということについては何も語ってくれません。
新型コロナの特徴や性質については喜んで語るけれど、それによって仕事ができなくなった夜の世界の人たちやバンドマンやアーチストや旅行代理店の社員などの生活困窮については一切語りませんし、その責任を負いません。
つまり、ウィルスの一般的特性については延々と語り続けるのに、それによる僕らなまの人間の生活世界の混乱については何も語らないのです。
先日、タモリさんと山中先生が1時間半にわたって、「人体VSウィルス」について語っていました。それはそれでとっても面白かったんですけど、、、(めっちゃ面白かったです💦)
ですが、これを知ったところで、生活世界の中で苦しんでいる人を救うことには一切なりません。
この番組にどれだけのお金と労力を使ったかは分かりませんが、相当のお金と労力が使われていると思います。
同じように、「人体」と「ウィルス」に関する研究や調査には、とんでもない量のお金が投入されているように思います。
そのお金のいくらかを、もっと「生活世界についての研究」にまわせないものなのでしょうか?
まわさないでしょうね。。。
期待もしていません。
ふと思ったんです。
今の時代は、ずっと「科学信仰」を生きている時代なんだなぁって。
科学的な知識が正しい、とみんなが素朴に信仰している時代なんです。
いや、厳密に言えば、「科学的な知識の中でみなが「正しい」と思ったこと(科学的な共同幻想)を信仰する時代」なんだろうと思います。
科学者たちが構築する言葉を、科学を信仰するメディアが信じて、それを僕らに伝え、それを僕らが信じて、その言葉に支配されていく、と。
「マスクをすればウィルス感染は防げる」ということの真偽を問う前に、それを信じ、そして「マスク」に支配されていくんです。
「手を洗い、消毒すれば、感染は防げる」ということの真偽を問わず、それを信じ、そして、僕らは「消毒液」に支配されていくんです。
科学の知識は、宗教的な知識と違い、常に自己増殖していきます(まぁ、科学者がどんどん次から次に新説を発していくということですが)。
それに伴い、「新たな研究によると…」というフレーズと共に、あれをするな、これをするな、あれをしろ、これをしろと僕らに注文をつけてきます。
僕らの生活世界は、そうした科学的研究の成果によって、どんどん制限され、限定され、禁止されていくわけです。その成果が本当に正しいのかを一切知ることなく…。
…
考えてみれば、「マスクを着用すること」=「人の迷惑にならないこと」とほとんどの人が認識していると思いますが、誰一人として、「マスクを着用すること」が人の迷惑になるのかどうかの真偽を確かめていないんですよね。そもそも知りようがありませんけど、、、。
まずは、僕らが素朴に信じている「信仰」を一つ一つ疑っていくことから始めたいですね。そろそろ。
(科学的説明の結果として出された)「ソーシャルディスタンス」という言葉に支配されたことで、僕らは、あなたと「ハイタッチすること」も「手をつなぐこと」も「向かい合って食べること」もできなくなりました。
「三密」という言葉に支配されたことで、ライブでみんなで一体感を味わうことも、球場で一緒に試合の観戦をして、一つになって叫ぶことも、夜のお店で密接な距離でお酒を呑むこともできなくなりました。
「マスク着用義務」によって、あなたの「表情」に接することもできなくなりました。みんなの「顔」がどんどん見えなくなってきています。
人間は、動物であって、ロボットではない。生命であって、ただの「もの」じゃない。生き物であるがゆえに、人と接したいという欲望をもつし、同種の存在者と一体になりたいと思うし、緊密な距離で触れ合いたいと思う(思うというよりは本能的にそれを望む)。
それが断たれているのが、今という「非日常」です。
新型コロナウィルスとその研究によって、僕らの「生命」(人間の生命一般?)は守られますが、その一方で、僕やあなたの「生活」はどんどん破壊されていっています。
感染拡大を恐れること自体は正しいとは思いますが、それだけに支配されることだけは避けたいところですね。別に、経済的にどうこうっていう話じゃなくて…。いのちか金かという話でもなくて…。
何事もほどほどに…、と。
あれかこれかではなく、あれとこれの「不純の均衡」が大事なんです。
切にそう思います。