Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

恋愛交差点23-恋愛の最大の敵は「倦怠」だが、その克服の道は唯一つ「カテゴリーを愛せ!」だ!

恋愛交差点23.

恋愛交差点21~22では、伝統的&学術的な恋愛概念についてみてきました。

前回の22.の記事はこちら

✅資本主義的愛・Haveの愛=消費・所有(者)
✅プラトニックラブ=あこがれ
✅ロマンティックラブ=永遠
✅コンフルエントラブ=関係性

今回は、恋愛における「倦怠」「飽き」「退屈」「マンネリ」などについて考えてみましょう。

「カレシ・カノジョといても、たのしくなーいー(ぶっちゃけ飽きた…💔)」っていう人は是非💕

どんな恋愛も、やがて訪れるのが「倦怠期」。

それがプラトニックラブでもロマンティックラブでもコンフルエントラブでも…

おそらくアガペーの愛以外は、つまり神の愛以外は、すべて「倦怠」に向かいます

倦怠の最も中心に来るのが、「飽きた」という感覚です。

近代以降の人々は、常にこの「飽きた」という感覚に苛まれているんですね。(*「飽きることができる」ということ自体、今の人たちは恵まれているという意見もあります)

この倦怠や飽きは、「退屈(Boring)」という概念につながっていきます。

倦怠期を迎え、相手に飽きて、ひたすら退屈する、という感じです。

話をしてても面白くない。一緒にいても退屈している。刺激もなければ、変化もなければ、ただただ同じようなことを同じようにやっている…だけ。

とりあえず一人じゃ寂しいから付き合ってはいるけど、、、

「全然オモシロクナイ…💔」

人はなぜ飽きて退屈するのか。

先日、この本を読んで、「退屈問題」を考えてみたくなったんです。

この本、退屈に苦しんでいる人は是非読んでほしいのですが、、、

「退屈ということは意味を失うということで、そういう状況におちいった人にとってはつねに深刻なものである」(p.18-19)

「退屈は近現代の人間の「特権」である。歴史の流れのなかで、喜びと悲しみの量はそう変わらないにしても、退屈はかなり増えているのを確認しなければならない。世界はたぶん前より、退屈になったのだ」(p.25)

「ハイデッガーが強調するように、いまの時代の関心は興味あることのみに向けられていて、興味あることはすぐに興味ない退屈なものになってしまうのだ」(p.34)

でも…、

自分自身のことを考えると、、、

僕って、まったく何にも退屈してないんです!(;´Д`)

いや、厳密に言うと、自分には「ライフワーク」があり過ぎて、退屈している時間がないんですね。

そのライフワークの一つが「ラーメンの探求」なので、ラーメンの例を使って、「個別ではなく、カテゴリーを愛せ!」という話をしていこうと思います。

他の食べ物でも同じですが、同じお店で同じラーメンを食べていると、飽きてきますよね?!

たまに週5で同じお店で同じラーメンを食べている人もいますが、、、

けど、だいたいの人は飽きてきます。

飽きるので、限定ラーメンを選んだり、別のお店に行ったりするわけです。

限定ラーメンにも、すぐ飽きは来ますし、別のお店に行っても、またそのお店のラーメンも飽きてきます。

とにかく飽きるんです…(というと、お店の人に怒られそうですけど…💦)

個別のものは、それがどれだけ美味しいものであれ、飽きてくるのです。

個別のものはすべて飽きがくる

けれど、ラーメンフリークになると、個別のラーメンの好き嫌いを超えて、「ラーメン」そのものの探求が始まるわけですね。

一つのお店で自分が大好きなラーメンを食べているところから脱却して、「ラーメンの世界」を知ろうという欲望が生まれてくるんです。

この「ラーメンそのもの」や「ラーメンの世界」こそ、一つの「カテゴリー」となるんです。

僕は、「ラーメン」というカテゴリーそのものに魅せられているので、日々、それこそ365日ラーメンのことを考えていますし、それを20年以上も続けているわけです…。

それでも、全然自分がラーメンのことを知っているとは思わないし、まだまだ未知のラーメンだらけです。食べても食べても、「全制覇の道」は程遠いですし、おそらくはその道の達成はない、とも思っています。

僕も、その辺にいる退屈な人間であることは間違いないので、一つのラーメンだけだと「倦怠」「飽き」「退屈」が襲ってきます。「飽きてきたなぁ」って。。。

でも、「ラーメン」というカテゴリーで考えると、全然飽きてないどころか、食べれば食べるほど、細かいところが見えてきて、更に好奇心が高まっていくのです。

きっと、死ぬその時まで、「ラーメン食べたい!」って叫んでいることでしょう。

つまり、カテゴリーは、それがどんなジャンルのものであれ、飽きることはないんです。

カテゴリーとなるものはすべて飽くなき探求となる

ここに「個別」と「カテゴリー」という二つの視点が出そろいました。

これは何にでも通用する話だと思います。

「セブチが好き💓」っていう人は、個別のグループが好きなだけ。だから、いずれ飽きてきます。

でも、「K-POPが好き💓」に変わると、一気に視界が開け、広い世界の只中にいる感覚になります。

「LUNA SEAが好き💓」っていう人は、個別のロックバンドが好きなだけ。だから、やっぱり飽きてきます。

でも、「ヴィジュアル系が好き💓」に変わると、恐ろしく深淵な世界の奈落の底に突き落とされます。

ヴィジュアル系の世界も、入ってしまうと、そこは恐ろしく深淵な世界なのです。

同じように、「恋愛」も、個別の恋愛だけに目をいっていると、必ず飽きてくるんです。

それが、いわゆる恋愛における「倦怠期」なんだと思います。

どんな恋愛も、どんな素敵なイケメンとの恋も、どんな可憐な美女との恋も、飽きてくるんですね。

ロマンティックラブは、それを否定して「永遠」を押し付けてくる。

コンフルエントラブは、それを肯定して、「お別れ」を押し付けてくる。

どっちも「飽き」や「退屈」に対して、有益な提言をしてくれないんです。

恋愛も、一つのカテゴリーとして成立する、と考えてみると、、、

恋愛そのものを、自分自身のライフワークにするというか、恋愛そのものに知的な好奇心を向けてみる、というか…。簡単に言えば、「恋愛フリーク」になってみると、「飽き」や「倦怠」から自由の身になれるのではないか、と思うのです。

恋愛と言っても、色んなタイプの恋愛があり、色んなかたちの恋愛があります。

アガペーの愛(神の無条件の愛)、フィリアの愛(友愛)、エロスの愛(教師愛)、それに、プラトニックラブ、ロマンティックラブ、コンフルエントラブもあります。

更には、親の愛、子への愛、祖父母の愛、隣人愛に、同性愛に、動物愛に、フェチズムの愛、自己愛=ナルシシズムもあったりします。

恋愛対象は、ある意味で無限で、どんな対象であっても、「愛する対象」になり得るわけですね。

恋愛フリークなら、そのすべてを網羅したくなるでしょうし、そのすべてを知ってみたいと思うはずです。

そのすべてを経験する必要はないと思いますが、誰かの経験談や体験談として聴くことはできると思いますし、そこから「恋愛の理解度」を深めていけばいいだけのことです。

カテゴリーの愛は、そのカテゴリーのすべてを知り尽くしたい、という願望から来ます。(「欲求」ではなく「願望」!)

教師や保育士(あるいは子どもにかかわるあらゆる職業人)は、それこそ「子どもの成長を願い、子どもを愛する」ということを実践することになります。

愛することが、仕事の内容になるんですね。

とすれば、個別の恋愛に関心を持つことから離れて、恋愛というカテゴリーに関心をもつべきではないか、と思うのです。

愛のかたちは、おそらく人の数だけ、いや、すべての生命体の数だけ、いや、神様まで入れると、もうとんでもない数の「愛」があることになります。(人間以外の動物でも、(ボノボなど)子どもへの愛情をしっかり向ける親はいます)

誰かを「好きだ」と思う感情も、色々だと思います。色んな「好き」があると思います。「親が好き」「姉が好き」「弟が好き」「彼氏が好き」「彼女が好き」「師匠が好き」「アーチストが好き」「仲間が好き」「親友が好き」…

どの「好き」も、恋愛論においては大事にされるべきものだし、その「好き」の程度や表現方法まで考えると、どれも複雑なものになってきます。

しかも、既に色んな所で言われていますが、「好き」の反対は、「嫌い」ではなくて、「無関心」です。とすると、「嫌い」という感情もまた、恋愛論の中に入り込んできそうで、やっかいです。

ラーメンにおいても、「これは嫌いな味」と思うラーメンが、その先の未来の「好きな味」に変わる可能性もあるし、また、「好きだ」と思っていたラーメンの問題性に気づいて、批判するようになるかもしれない。(僕は「家系ラーメン」が好きだけど、同じくらい嫌いなんです…💦)

好きだから嫌い、というのもまた、恋愛論の一つの大きなテーマになるかな、って思います。

はい。

そういうわけで、個別具体的なものではなく、カテゴリーを愛せ!という話でした。

これは、広い意味では、「演繹」と「帰納」の話になるのかなって思います。

カテゴリーを見つけたら、そこから個々のものを見ていき、そしてそのカテゴリーそのものを理解していく。(演繹)

あるいは、個々のものを多数見ていき、そして、その個々のものを集めて、カテゴリーそのものを仕上げていく。(帰納)

どちらにしても、この個別とカテゴリーの循環構造に入ってしまえば、飽きることも退屈することもなくなると思います。

たとえば、これからの時代…

ずっと愛するパートナーがいながら、ときおり定期的に別の人と恋愛(友愛)して、そして飽きて、そのパートナーのところに戻ってくる、というような「愛」がスタンダードになるかもしれません。

あるいは、個別の恋愛の価値を一切認めず、「恋愛フリーク」になるために、ひたすら(ラーメンの食べ歩きのように)恋愛をし続ける、という恋愛がスタンダードになるかもしれません。

ロマンティックラブ神話が崩れた今、「恋愛」のかたちも多種多様になりました。

アメリカでは、男性3人の3人親家族も出現しています

夫婦は2人、というのも、ラーメン的に言えば「ノスタルジック(ノスラー)」になるのかもしれません。

パパとママのいる家庭?? うわー、なんかノスタルジック~!」みたいな…💦(それこそ「ノスラブ」?!)

個別のものは、ラーメンでも恋愛でも、必ず「飽き」が来ます。

でも、それをカテゴリーとして愛せば、そこから「探求」が始まります。

ラーメンもヴィジュアル系も恋愛も教育も福祉も哲学も、僕は「カテゴリー」(シンボル形式?!)として愛しています。

だから、多分、どれも全部飽きないんだと思います。ずっと好きのまま…。

個別具体的なものに留まっている限り、人は「暇」「倦怠」「飽き」「空談」「堕落」「惰性」「マンネリ」「無気力」…と向かっていくんだと思います。

まさに、(冒頭の引用に出てきた)ハイデッガーのいう「非本来的自己」の典型的な在り方…ですね。

僕は、「いずれ死ぬ自分」を意識して、そして決して達成することのない「ラーメン」というカテゴリーを愛し続けて、1日に1日を大切にして、また一杯のラーメンを愛して、ブログにそのことを書いて、、、

そうやって、生きていきたいと思います。

もし…、身体が壊れて、ラーメンが食べられなくなったら、、、

その時は、別のカテゴリーに移行するのみ!です。他のカテゴリーもまだまだいっぱい愛しているから…。

目が見えなくなったら、「音楽」というカテゴリーを生きればいい。

耳が聴こえなくなったら、「読書」というカテゴリーを生きればいい。

目も耳も聴こえなくなったら、「ラーメン」というカテゴリーを愛して、なんとか「出力方法」を学習して、情報発信すればいい。

歩けなくなっても、「音楽」や「読書」はできるし、食べ物の規制や制限が与えられても、「健康食」のグルメブロガーになればいい…。

カテゴリーという概念があれば、いつでもどこでも、その「探求者」になれるんです。(15年以上やっている「第四土曜日の会」はまさに、カテゴリーとしての「保育」を楽しんでいるんだろうな…)

みなさんも是非、カテゴリーを愛して、そのカテゴリーの探求者になってくださいね💓

退屈している暇なんてない! そう遠くない未来、みんな死んでしまうのだから…。

倦怠も飽きも退屈も、僕たちは克服できる…はず!!!

こんな本もありますよ~!

安定の小谷野さん💕

退屈の哲学!!

このTシャツ、欲しい、、、😂

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