Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【体験】について

現代の人々は、【体験】をとても大切にしてるように思う。

「若いときしかいろいろ体験できないから」、「勉強するより体験したほうがいい」、「若いときの体験は将来役に立つ」、「体験の乏しい人はつまんない」etc... 

では、ホントに、【体験】はそんなに大切なことなのだろうか。もし大切だとするならば、なぜ、どうして、どのような点で大切なのか。それ以前に、いったい【体験】というのはどういう事態なのだろうか。体験豊富な人はなぜ尊敬されるのか。何かを体験してるということは、その何かについて、いったい何を知っている、というのだろうか。いや、それ以前に、体験という言葉はいつ頃から使われている言葉なのか。ボクが知る限り、【体験】という言葉は、ヨーロッパの翻訳語であって、本来の日本の言葉ではない(と思われる)。英語では、【体験】は、【経験】と同義語で、experienceとなる。語源的には、“たくさん試みること”といったニュアンスを持った言葉だ。

この【経験】と【体験】の二つの言葉は、ドイツ語圏でも同じように区別されている。Erfahrung(経験)とErlebnis(体験)の二つの言葉がある。おそらく、日本語の体験という言葉は、ドイツ語のErlebnisという言葉の翻訳語ではないだろうか(全く定かでないが)。

日本語の【体験】という言葉は、ホント、ドイツ語のErlebnisと合致している。接頭辞のer-と動詞のlebenという言葉で出来ている。接頭辞er-は、何らかの事柄の完成、獲得、習得、完遂や、何らかの事柄の開始を意味している。erlebenは、生き終わる、生き始める、生きることを獲得する、生ける事柄を得る、といった意味となる。多分、日本の多くの人が使う場合、まさに、【或る事柄を生き生きと獲得すること】として、体験を語っているように思う。

では、そんな体験=Erlebnisは、どのようにしてドイツで生まれてきたのか。そんなことを書いた文書を見つけた♪(H.G.Gadamer)

ドイツ語の文献における≪体験:Erlebnis≫という言葉の現われの考察は、次のような驚くべき帰結を導く。すなわち、≪体験する:Erleben≫という言葉と区別される19世紀の70年代になってようやく日常的に使われることになった、という帰結である。18世紀には、この言葉はまだ全く使われていなかった。また、シラーやゲーテもこの言葉を知らなかった。この言葉の最初の使用例は、ヘーゲルの書簡であるように思われるが、30年代から40年代にかけては、ほとんどこの言葉を見かけることはなかった(ティーク、アレキシス、グッツコウの書物で見かける程度だった)。また、この言葉は、50年代、60年代になっても、ほとんど使われていない。だが、突如として、70年代になって初めて頻繁にこの言葉が出てくるようになったのである。一般的な言語使用におけるこの言葉の一般的な取り入れは、この言葉の伝記文学(biographischen Literatur)での使用に関連しているように思われる。

ここでは、すでに古くなってしまったがゲーテの時代によく見かけられた≪erleben:体験する≫という言葉の副次的な成り立ちが問題となるので、新たな言語形成へと向かう端緒は、≪erleben≫の意味分析から獲得されねばならない。Erleben(体験する)は、さしあたって、≪何かが生じた時に、さらに生きている状態にあることnoch am Leben sein, wenn etwas geschieht≫を意味する。そして、そこから、erlebenという語に、何か現実的なものを捉えるという直接性の意味合い(Ton)が入ってくるのである-ゆえに、他者から受け継がれたり、人づてに聴いたりしたことに由来するものであれ、推論によって導き出されたものや推測されたものや思い込みによるものであれ、【自分も知っているのだと思いつつも、個々の経験による確かさ(Beglaubigung)の欠けている事柄】と反対のものが体験されたものなのである。体験されたもの(Das Erlebte)は常に自らをもって体験されたものなのである。


体験の意義は、思い込みや邪念や憶測ではなく、自らの経験による確かさがある、ということなのだろう。自分にとっての【確かさ】は、やはり自分に出来事の保障を与えてくれる。体験したことは、紛れもなく、自分自身にとっては確かなことであり、何らかの後付や権威付けがなくとも、それが正しいと言えてしまう、という点にあるのではないだろうか。現在の多くの人が体験を大切にし、体験に重きを置くのも、やはり何らかの重み付け、確からしさの保証を求めているからだろう。自然科学とは違う明証性(確からしさ)は、まさに【体験】による確からしさなのであろう。

また、体験を語る、という場合、その体験を語ることは、その人にとって確かなものを語ることに他ならない。そういう体験は、たしかに論理的な非体験よりも説得力がある。また、逆に、体験された事柄を語る時、その体験がしっかり確かな事柄として、相手に伝達されるためには色々な努力が必要になるとも思う。体験談は、その本人にとっては確かであっても、聞く相手にとっては非体験談となる。つまり、体験による語りは、自分の中での確かさとはひきかえに、他者には届かない、というジレンマを同時にもつことになるのである。。。(ま、つまりは、体験はあくまでも自分のためだけにしておけってことかな。人に語っても零れ落ちちゃうっていうか・・・)

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