最近、寛容と不寛容についてよく考える。
寛容というと、欧米かぶれした僕としては、Toleranceという言葉が浮かんで仕方ないが、この概念は、世界的によく語られる言葉になっている。
世の中、相対主義が横行するなか、何でも、「個人の自由」が叫ばれるようになっている。「人それぞれ」という思想が、いたるところで跋扈している。他者の考えを尊重することの倫理的道徳性が持ち出されては、自分とは異なる他者をどう受け入れるか、が議論されている。哲学の「他者論」も、その文脈で使われることが多い。
われわれの社会は、寛容になったのか?!
今回、大震災にかかわる一連のニュースや、この数日メディアを賑わわせているユッケ問題などを観ていると、逆に、「不寛容」の方が目立っているように思う。一方では、「がんばれニッポン」、「日本はひとつ」、「チームニッポン」といったスローガンが叫ばれ、美しい言葉が一時TVで連呼されたが、その一方で、特定の誰かに対する攻撃は異常なくらいに強まっている。義捐金活動やチャリティー活動が活発に積極的に行なわれる一方で、特定の他者への攻撃は容赦なく行なわれる。
「土下座」のシーンも、恐怖を感じるほどに、執拗に報道される。これだけ、「進歩した」と言われている国であっても、古来続く日本のある種の作法である「土下座」が求められることに、変な違和感をもつのは僕だけだろうか。
人間の命は、誰であってもかけがえのないものであるのに、誰かに対しては、極めて温情に扱うのに対し、別の誰かに対しては、極めて冷酷に扱う。この差はいったいどこに起因しているのだろうか。
今、起こっている問題は、その特定の誰かだけの責任と言えるのだろうか。もちろん、誰かが責任を負わねばならない。でも、その人だけに全ての責任があるわけでもない。そのことを認め、その特定の相手の自尊心や尊厳を守った上で、責任の所在を顕わにしなければならないのではないだろうか。
某事件の某氏の謝罪を見ていると、かなり様子がおかしいことに気づく。犯した過ちは許されるものではないが、あの様子を観ていると、観ているこっちが心配になるほど、某氏の様子はおかしい。あれがパフォーマンスなら、相当なペテン師だが、パフォーマンスでなければ、彼は、死んでしまうのではないかと思うくらいに、追いつめられている感じがする。これまでにも、彼に対するのと同じように無思慮に糾弾して、死に追いやられた人は相当数いた。
このブログなど、読まぬとは思うけど、その某氏に近い存在の人がこれを読んでいたら、彼をまず気遣ってほしいと思う。僕の見方が間違っていなければ、今の彼はあきらかにおかしい。孤立と孤独と焦燥感と絶望に臥していると思う。もちろんとんでもないことをした、という点では、彼は裁かれなければならない。けれど、これだけ事件の発生元が明らかになっているのだから、いたずらに糾弾することは避けるべきではないか。
彼もまた、一人の人間である。
先の問いに戻れば、「われわれは寛容になったのか」ということについては、まだまだ不寛容な社会なのではないだろうか。一度、糾弾されれば、四面楚歌状態に陥る。「炎上」という言葉も流行ったが、特定の誰かへの集中砲火は、この国では日々起こっている現象ではないだろうか。もちろん、すべての人がそういう集中砲火の攻撃を与えるわけではない。心ある人もたくさんいる。けれど、それを牽引しているのが、中立の立場をとるメディアや報道であれば、そちらの方が問題ではないか。
「まったなし」の状況にあって、それでもわれわれは特定の他者に対して寛容になれるのかどうか。ある意味、今こそ、このことが問われているように思えてならない。
Zero Tolerance(寛容さゼロ)は、(自分をその当事者に置き換えてみると)やはり恐ろしいことになると思う。