Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

加藤智大、『解』。どこまでも考えさせられる一冊か。 

 

加藤智大。

この名を聞いて、今なお、その顔がぱっと浮かぶ人はどれだけいるだろうか。

彼は、あの『秋葉原無差別殺傷事件』の犯人で、17人もの人を殺傷した男。2011年に死刑判決となり、現在控訴中となっている。

1982年生まれ。僕の7つ下の男。同じ世代には入らないかもしれないが、そんなに世代が違うというわけでもない。同じような時代を生きた男だ。

この男の本が、批評社から出版された。既に賛否両論だ。

彼の起こした事件は絶対的に許されず、それを認めることはない。だが、この本自体は、読むべき価値をもっていると思った。ここに書かれてあること全てが、彼の言葉なのかどうかは分からない。けれど、この本には、いわゆる普通の本、特に学術書には決して書かれることはない「凶悪殺人者」のリアルさがあり、加藤智大という人間の心の奥底を知る手がかりを与えてくれているように思う。

http://www.amazon.co.jp/%E8%A7%A3-Psycho-Critique-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E6%99%BA%E5%A4%A7/dp/4826505590/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1343659067&sr=8-1

以下、書評と僕の感想。


 

●彼は、掲示板上で、独自のキャラを確立させていた。「不細工スレの主」というキャラだった。このキャラは、彼にとっては唯一の「社会的な顔」だった。この「不細工スレの主」というキャラは、掲示板上でかなり認知されていたようで、偽物が登場するほどだった。この偽物こそが、彼の怒りの根底にあった。この偽物を、彼は「成りすまし」と呼んでいる。この「成りすまし」の登場が、彼を追いつめた。

●現実社会にも色々な友人はいたそうだが、彼が輝ける場所は、唯一この掲示板だけだった。そして、その掲示板での彼だけが、自分のアイデンティティであり、その全てだった。「不細工スレの主」というキャラが、別の何者かに盗られることは、彼にとっては何にも耐えがたいことだった。

●そんな「成りすましら」(複数いたらしい)の行為は、彼には絶対的に許せない行為だった。

●絶対的に許せない行為をした人間に対して、彼は、自分の成育歴を重ね合わせることで、報復しようとした。

●加藤の母親は、彼に対して、絶対的に厳しかった。しつけも厳しいものだった。重要なのは、彼の母は、自分が間違っていると思うこと(彼の行為)を絶対に認めず、間違っている場合は、厳しい罰を彼に与えていた。「例えば、私が母親が料理をしているところにちょっかいをかけると、いう間違いを改めさせるために母親は私を2階から落とそうとしました。私が母親から九九を教わったのに暗唱をを間違える、という間違いを改めさせるために母親は私を風呂に沈めました。…しつけといえばしつけなのでしょう。その意味では、私も成りすましらにしつけをした、と捉えることができます」(p.69)。

●匿名の掲示板の場合、しつけの対象(=怒りの対象)は特定できない。しかし、彼はこの「成りすまし」に何とかして攻撃しようと考えた。この成りすましらを攻撃する手段を考え、その結果(その関連性は僕には理解しえないが)が、秋葉原無差別殺傷事件だった、ということだ。

●ゆえに、彼は、不特定多数の人間、社会に不満があったわけでもないし、無差別に人間を忌み嫌っていたわけでもなかった。彼の怒りの矛先は、全て「成りすまし」をしたインターネット空間にいる掲示板のスレ住人たちだった。

●彼がこの事件を起こす前の葛藤を壊したのも、やはりインターネットだった。これには僕も驚いた。彼は、事件を起こす数分前に、掲示板に殺人予告のコメントを書いた。この時、彼は、もはや後戻りできない、と判断したようだ。掲示板上での殺人予告は、それ自体犯罪であり、取り返しのつかないことをしてしまった。そして、そして彼は、岐路に立たされる。ここで無差別殺人を回避すれば、刑務所に行った後、掲示板の人間に笑い者にされ、社会に復帰しても、もうダメだ。それなら、ここで無差別殺人を犯して、死刑になった方がマシ、だと、そう考えるに至る。「刑務所で地獄を見た後に孤立している世の中に放り出されるくらいなら死刑のほうがマシ」(p.110)。

●彼は、こうした無差別殺人は、「してはいけないこと」だとは分かっていた。が、そのことに気づけないこともある、と主張する。上で書いたが、彼にとっては、「成りすましら」による「不細工スレの主ののっとり」は、絶対に許せないことだった。この成りすましらを裁くためには、「してはいけないこと」という論理も通用しない。

●最後まで、「成りすましへの裁き」と「無差別殺傷事件」の関連性は理解できなかった。が、きっと、彼の中ではつながっているのだろう。ただ、一つ重要なのは、彼は、決して、秋葉原にいた不特定多数の人たちをねたみ、恨み、憎んでいたわけではなかった、ということだ。つまりは、社会への厭世から動機が生まれたわけではなく、掲示板のスレッド上でのいざこざから、無差別殺人へと向かっていった、ということだ。

●全体的に、彼はずっと孤独だった。いや、孤独というよりは、素直な自分でいることが許されない環境の中で育ち、ずっと仮面をつけたまま、生きてきた。その仮面が少しだけなくなる場所が、インターネットの世界だった。この本を読んでいると、ものすごく孤独を感じる。唯一、人に承認されるのが、ネット世界だった(一部、リアルな友人もいたみたいだが、彼の心はいつも掲示板にあった)。

●彼を弁護する気は全くないが、こうした事件へと向かった動機というか、背景は理解できた気がした。もちろん、彼が許されることはない。彼も、死ぬことを自覚して、この本を書いている(冒頭の文章には、思わず震えた…)。けれど、この事件に向かってしまった背景はなんとなく分かった。育ってきた環境、そして、実際に生きている現実、そして、精神的支柱、いろんなものが(不幸な仕方で)重なり、何か大きなきっかけが起こることで、スイッチが入ってしまう。きっと、どんな人間であっても、そうなんだと思う。彼は、事件前から自殺を意識していた。事実、自殺の計画も立てていた。何かのタイミングがずれれば、こうした事件は起こらず、一青年の自殺で幕を閉じていたかもしれない。(自殺者数はもうこのところずっと30000人台)

●彼は、言う。「私には人に相談をするという発想が無かった」(p.77)。彼には、相談できる他者がいないだけでなく、そもそも他者に相談するという発想そのものがなかった。この言葉はあまりにも重すぎる。いじめを苦に自殺をする子どもも、やはりもしかしたら相談するという発想自体を持ち合わせていなかったのかもしれない。「相談するという発想の欠如」、これはあまりにも重たすぎる現実である。

●彼も自覚しているが、問題は、第二の「加藤智大」を出さないことである。彼が死刑で亡くなっても、根本問題が解決されなければ、また同じような人間は登場する。事実、無差別殺人事件は起こり続けている。自殺者も減らない。彼は、仕事をせずに怠ける人間ではなかった。むしろ、積極的に働くために動いていた。問題は仕事ではない。彼にとって問題だったのは、家族との関係だったり、友人や恋人といった仲間との関わりだったり、そうした人間的なつながりがないことへの苦しみだった。つまりは、「孤独」。

●この問題から、僕は、教育学の根本的な課題が見えてくるように思う。この本は、人間教育にかかわる人には(気持のよいものではないが)読んでもらいたいと思う。彼に同情する必要はない。ただ、こういう人間がいる、いた、ということは決して忘れるべきではないし、僕らの身近なところに、彼と同じように苦しんでいる人もいるはずである。人を孤立させてはならない。人を孤独の闇に沈めてはならない。居場所が一つになってはならない。人間は、誰ひとりとして、無関心には耐えられない。この本は、そうした苦しみに沈んだ人間の反省文であり、最後の弁明の言葉である(と思う)。

●ただ、それにしても、やはりなぜあんな猟奇的かつ残忍な行為に向かったのかはよく分からない。「人を殺せる」と「人を殺せない」の境界線はどこにどんな風に引かれるのだろう。彼の言い分は理解できたけど、彼の行為は今も理解できない。それは、犯罪者の手記や本のどれを読んでも同じだ。言葉じゃ分からないんだろうな、と。ただ、(このブログでは毎度だが)親の愛情(アガペーの愛)と、友愛(フィリア)がなければ、人間はどこまでも壊れていく、ということだろうか。彼の場合も、鬼のようなお母さん、そして離婚といった問題を抱え、不安定な家庭をもっており、また、どこまでも孤独な人間だった。愛情の欠如と孤独は、人間を壊すのだろう(、、、か?!)。


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http://d.hatena.ne.jp/r-hiragi/20120727/1343398734

http://2chbooknews.blog114.fc2.com/blog-entry-3052.html

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