Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

ドイツのクリスマスイブ―ドイツ人とキリスト教

ドイツのクリスマスイブ―ドイツ人とキリスト教

今回の訪独は、来年5月に原稿締め切りとなる本の原稿に必要な資料や情報や本や論文を集めることが主な目的なのだが、もうひとつ、どうしても経験しておきたかったのが、ドイツで最も古いクリスマス市を行うDresdenのクリスマスだった。

学校を論じる際、絶対に考えなければならないのは、ヨーロッパ人にとっての学校の意味(日本の学校との違いを意識しつつ)と、キリスト教と学校の問題だ。いわゆる「学校」はヨーロッパの産物であるし、ヨーロッパの伝統の中で生まれた装置だ。僕が主題とするドイツ人たちには、自分の身近な場所として、常に学校と教会があった。1919年以降、学校はドイツ人たちにとって行かなければならない場所となったが、ドイツ人にとっては、学校以前に、教会があり、キリスト教があり、それを通じた地元の人間同士のつながりがあったはずである。僕が明らかにしたい家庭―学校―社会の関係性は、まずもってヨーロッパの関係性に基づいている。日本の学校という無機的で無慈悲の装置を徹底的に深く捉えるためにも、ヨーロッパの学校とその周辺を、「生活世界」の観点から捉えておきたい。

今日の午後、Dresdenの中央にあるKreuzkircheで、クリスマスイブ礼拝に参加した。教会の中は、人で完全に埋め尽くされている。普段、がらんとしている教会もこの日は1階から4階までフルに人で埋め尽くされている。お年寄りから子どもまで、障害をもった人や僕のような外国人まで、あらゆる層の人が集まっていた。礼拝が始まるまではそれなりに教会内はざわざわしていたが、礼拝が始まると、教会内は完全に静まり返った。響くのは赤ちゃんの泣き声くらいだった。

礼拝は、これまた歴史と伝統のあるKreuzchor(クロイツ合唱団)の歌によって進行していった。主に聖歌(いわゆる賛美歌ではない!)だった。いや、キャロルというべきかな。歌詞の内容は旧約聖書のイエス誕生の場面を集めて、切り貼りしたような内容だった。マリアとヨゼフの出会い、天使の受胎告知、処女懐胎、救い主イエスの誕生といったバリバリキリスト教にかかわる真面目なシーンが歌に乗せて示されていた。礼拝なので、もちろん牧師の説教もあるし、全員で誓いを述べるシーンもある。全員で歌う箇所もいくつもあった。単なる発表会でもないし、単なるリサイタルでもない。全員で、キリスト誕生の物語を共に確認し合うのだ。共同幻想と言ったら言い過ぎだが、クリスマスイブにみんなで共に同じストーリーを生きるのだ。これが、ドイツ人にとってのクリスマスなのだ。ガダマーは「儀式は重要」と常に訴えていたが、それもこうした「共同ストーリー」を後世に残すためにも絶対に必要なことなのだ。日本の初詣に近いものだと思うが、日本にはこうした歴史に裏打ちされた共同幻想はない。ストーリーがないのだ。

ドイツ人たちにとっては、学校はあくまでも勉強する場所でしかない。学校は地域や社会や家族のほんの一部でしかなく、ドイツの子どもたちにとって学校は単なる一つの居場所でしかない。日本の一部の子どものように学校を根深く恨むこともないだろう。なぜならば、ドイツの子どもたちには、学校以外のよりどころをたくさんもっている。教会もそうだし、Verein(クラブチーム)もたくさんある。学校以外の友だちが決して少なくないのだ。日本の子どもたちの多くが、学校と塾での人間関係しかもたない。地域の人間関係が育たないのだ。がゆえに、学校という施設がその役割を担わなければならなくなる。

また、ドイツでは、いくら「核家族」が崩壊しても、夫婦がどれだけ離婚をしても、その家族や夫婦の土台となるものは今もしっかりと存在し続けているのだ。今回、僕はそれを強く実感することができた。日本では、家族の崩壊、夫婦の崩壊が日本人の心の奥底まで深く傷をつけ、家族を土台とする日本人はそれに苦しむことになる。家族以前の土台、これがドイツにはあるのだ。だから、こんなにも離婚や未婚家庭が多いのだ。家族という呪縛がこっちにはもともとなかったのだ。家族以前の縛りがあるから、家族の縛りがゆるいのかもしれない。その夫婦や家族以前の土台は、単にキリスト教だというものでもないのだ。人と人との根源的なつながりみたいなもので、もちろんキリスト教的なのだが、重要なのは、それがお互いの共通理解になっている、ということだ。日本では、そういう人間と人間とのあいだをつなぐ共通理解、共同幻想がない。それも、歴史的に裏打ちされた重みのある共同幻想がないのだ。一部の人間の間での共同幻想ではだめ。日本に住むすべての人が抱けるような共同幻想。しかも、外部の人間にも開かれているような共同幻想。教会は僕を含め、多くの外国人をそのままに受け入れてくれた。誰も僕をじろじろと見たりはしない。スケールのでかさにただただ驚いた。

ドイツ人たちのあの他者に対するオープンさ(ド派手なオープンさじゃなくて、ゆるやかなオープンさ)は、こうした根源的な人間同士の共同幻想の上に成り立っている。「僕ら、みんな同じイエスの誕生という物語を共有する仲間たち」ということがみんなに共有されている。そして、それを一年に一度執拗なまでに確認し合うのだ。もちろん、「処女マリア」の存在をホンキで信じている人はかつてほど多くはいないだろう。けれど、その物語は共有されているのだ。大事なのは、物語の共有なのだ。同じイメージ、同じ幻想を抱ける、ということが、この国の人々にとって、とても大事なことなのだろう。

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