12世紀と13世紀のヨーロッパは、都市建設の時代であり、都市生活の新しい息吹の時代であった。最初は、北イタリアとフランドル(北海沿岸地方)の躍進する都市において、その後すぐにドイツにおいて、都市貴族や裕福な商人の層が形成された。
遠方貿易の担い手であった彼らは、書字(Schriftlichkeit)を頼りにしていた。彼らにとっては、契約書を作成することや、手紙を書くことや、請求書を書くことや、都市自治区の公文書を作成することが重要であった。当初、商人たちは、自分たちの商売の処理を、聖職者の書記や外部学校(schola exterior)の卒業生たちにさせていた。
だが、彼らが獲得していた知識は、全くもって貿易や生産工業が求める特殊な要求に適うものではなかった。喩えて言うならば、復活祭の期間(Ostertermin)がいつかを知っている必要はなく、商品の価格を見積もることができなければならなかったのだ。又、教会法の知識の代わりに、世俗的な法の知識が必要だったのだ。要するに、豪商のオフィス(scrivekamere)や市庁舎の事務局の人々は、修道院学校や教堂学校が生徒たちに与えることのできる知識とは別の専門知識を求めていたのだ。-例えばイギリスとは異なり-ドイツでは、初歩的な文明技術の伝達が職業教授の一部に含まれていなかったため、市庁舎の人々は、自ら学校を建設しなければならないと感じるようになった。
この市庁舎の学校は、教会の学校と区別されることになるのだが、それは、ラテン語の使用という点で異なっていたわけではない。市庁舎の学校も教会の学校も、授業で話される言語はラテン語であった。また、教師という点で異なっていたわけでもなかった。世俗的な市庁舎学校であっても、教師は少なくとも最初は聖職者であったし、後に平信徒(Laien)になったとしても、常に宗教学者ではあった。
市庁舎の学校と教会の学校を区別するものは、生徒たちに伝達された知識であった。市庁舎の学校の知識は、商工業における人々の職業実践的な実用性の基準に従って選出された。また、通俗的な授業媒体もますます使用されることになった。例えば読解(Lesen)は、聖歌集で教えられるのではなく、(1445年、ヨハネス・グーテンベルクによる)活版印刷技術の発明以降に生徒たちの手に渡った読本(Fibel)の助けを借りて教えられるようになった。
こうした市庁舎学校(Ratsschule)やラテン語学校(Lateinschule)や通俗学校(Trivialschule)(通俗的なことがそこで教授されていたので)の誕生と共に、古い教堂学校や修道院学校ないしは地方の(プロテスタントの)教区学校に対するオルタナティブの学校が、貿易や手工業や商業であろうと、大学の法律学の勉学や医学であろうとなんでもよいのだが、聖職ではなく、大衆的な職業に就こうと努力しているすべての若者たちに利用可能となったのである。
その上さらに、世俗的な特徴をもったある程度高度な学校を手本にして、-主に都市のツンフト(同業者組合)の責任で-次第に、手工業や小売業の卵たちを受け入れる学校も出てきた。高額な奨学金や小額の報酬金も出しており、そうしたサポートが、教育を受けて社会的な地位の向上を実現するチャンスを生かそうとした学生や、自由に放浪しながら中世後期の都市で大成功を収める社会的な逸材となった学生(「遍歴学生(Vaganten)」)など、大量の貧しい学生を支えたのである。
こうした学校では、もはやラテン語ではなく、各国の母国語で、読み書きに集約した基本科目の授業が行われていた。それゆえに、ドイツでは、「ドイツ語の」学校(ドイツ学校:deutsche Schulen)と呼ばれたり、最も重要な授業内容にちなんで、「書簡学校(Schreibschulen)」と呼ばれたりしたのであった。
この(書くという)基本的な知識は、またいわゆる周辺学校(Winkelschule)や予備学校(Klippschule)や補助学校(Beischule)といった初等教育の学校でも伝達されていたが、純粋な民間事業主や都市の役人たちからはあまり評価されなかった。というのも、こうした学校の教師は、自分の神学の勉強を断念した教師やラテン語学校の卒業生たちばかりで、そのほとんどが極めてお粗末な授業をしていたからだ。
それに対して、大きな商業都市では、計算職人(Rechnenmeister)が、勘定することに反対して、子どもたちに基本的な計算を教えていた。その当時、「ドイツ語の」学校では、そういうことはまだ教えていなかった。その計算職人の中には、高いレベルの授業をする者もおり、創造的に、新しい授業方法を探求する者もいたほどだ。最終的には、彼らは次々と色々な学校から依頼を受けて、それだけで食べていくことができた。
このようにして、上の計算職人の導きによって、15世紀後半に現れた計算の授業の最も古い実践が行われたのである。その中でもとりわけアダム・リース(1492-1559)の名は今日もなお有名である。
もちろん教会は、自分たちが学校や教育を独占できなくなってきたことに抵抗しようと、必死になった。そこで、彼らは自分たちに行使していた学校の監督権(Aufsichtsrecht)を上述の新しいタイプの学校にも適用させて使おうとしたのである。当然、教堂学校のスコラスティクス(scholaticus)は、都市の学校の教育従事者の選出をすることも、その人間を監視することも、自分たちの権限だと主張した。
しかし、ヨーロッパ全土で、市町村の自治を強く求める都市の参事会と、貴族階級の都市領主、つまり該当の都市のあるそれぞれの領土の勢力を拡大する領主らは、この主張をすぐにやすやすと受け入れることなどできるわけがなかった。
こうして生じた言い争い-上で話題にしたあの衝突-の結末は、都市の領主が、ドイツ帝国の都市では市参事会が、学校設立と学校の監視の権限を遂行した、というのがほとんどだった。
しかし、実際(de facto)、後者の監視は、教会が行っており、結局は地域の牧師が監視していたのだった。それに加えて、教職は通常特定の教会の仕事と結びついていた。例えば、ミサ聖祭(Messenerei)や生徒合唱団の指揮といった仕事だ。また、牧師学校や教会職学校(Küsterschule=教会の雑務係として働く人間のための学校)のように、礼拝での音楽の伴奏も教職の一つであったし、葬儀に立ち会うことも教職の一つであった。
かくして、こうしたすべてにもかかわらず、都市の世俗的な学校も、教会との密接な接触のうちにとどまっていたのである。
(了)
やばいやばい。この文章、めっちゃ難しい。多分、過去最高に読みにくい・・・(kei)