今年のテーマは、「福祉、教育、愛」だ。講義でも「愛すること」について述べているし、今年の論文も「福祉、教育、愛」について論じようと思っている。
なんでそんなことを論じているのか。福祉や教育に愛なんて関係ないじゃないか、と思う人もいるかもしれない。でも、(まだ漠然とでしか見えていないが)愛することは教育や福祉の強烈な前提条件なんじゃないか、と思うのだ。
<以下スケッチ>
人を愛する条件とは何か。
人を愛する条件は、自分を愛せていること。自分を愛せずに、そのことで苦しんでいる人は人を愛することができず、愛されることしか要求しない。
では、自分を愛するための条件は何か。
自分を愛するための条件は、自分自身がたっぷりと愛されていること。あるいは、愛された経験をもっていること。
通常は親にたっぷりと愛されることになるが、すべての人が親から愛を受けるわけではない。親も人間だ。愛されたことのない親であれば(あるいは自分を愛せていない親であれば)、その親は子を愛することができない。子は親を選ぶことはできず、愛されるか、愛されないかは、運命というか、宿命というか、そういうものであって、自分の力ではどうすることもできないことなのである。
実際に親に愛されずに育った人は(本当に本当に)たくさんいる。愛に飢えた人の数は、愛に満足している人の数の数倍に及ぶのではないか。
そこで、問うたのが、「親から愛されずに育った子ども(~大人)は愛することを学ぶことができるか」、ということだった。
この問いは答えることが非常に難しい。
「愛の学習可能性」を信じるか、信じないか。
ずばり、僕は信じる。
親から愛されなかった人は、親ではない誰かに愛される必要がある。親が子を愛せない以上、別の人間によって愛されなければならない。(僕が赤ちゃんポスト賛成なのも、この点にある。親が愛せないなら、早いうちにその子をしっかり愛してくれる里親のもとで愛されて育ってほしいから。親も親で子を育てる以前に誰かに愛されてもらいたい。)
しかし、別の人間とはいえ、親的な愛情(無条件の受容・許し・承認)は、恋人によって与えられる愛情(エロスの愛、対等な愛、条件付の愛)とは質的に異なっている。親的な愛情の方が異性愛よりもはるかに大きな愛である。
ゆえに、恋人との恋愛でこの条件を満たすことは難しい、というか不可能だ。幼児期に愛されて育った子どもが受けた愛は、徹底的な愛情だ。そして、エロスを介さない。無条件の愛であり、利害関係ではない愛情関係であり、一方的に認められてしまう愛である。恋人との愛は対等であり、利害関係がからみ、相互補完的な愛である。
愛されることを経験しなかった人には、恋人ではない誰かにたっぷりと愛される経験が必要なのだ。
それは、先生かもしれない。保育者かもしれない。近所の人かもしれない。先輩かもしれない。いずれにしても、対等ではなく、大きな存在に愛され、許され、受け入れられ、認められ、包み込まれる必要があるのだ。(大きな視点でいえば、神やお釈迦様に愛され、許され、受け入れられてもいいのかも・・・)
僕が教えている学生たちは、まさにそうした子どもたちとかかわる仕事を目指す若者たちだ。
だから、「愛することを学ぶこと」について伝えたいと思っているのかもしれない。
愛情に欠けた子どもたちを守り、育て、愛することを仕事にする若者たちに、問いたいのかもしれない。
あなたは、子どもを愛するために必要な「愛される経験」をしていますか、と。
きっと教えること(教授すること)なら、愛される経験のない人でもできるかもしれない。進学塾の先生や予備校の先生や大学や大学院の先生なら、そういう経験がなくても、十分に任務を果たすことができる。教授法に長けていれば、とりあえずのところ、任務を果たすことができる。
しかし、教育するとなると話は別だ。文字通り、教え、育てなければならない。育てるということの中には、愛するということが含まれていると思う(by ペスタロッチ!)。初等教育では、むしろ愛することの方が教えることよりも重要なのかもしれない。初等教育では、教科よりも学級(生活環境)を重んじている。
人の人間性を育てたり、愛することを教える立場の人は、まずその人自身が愛されていなければならない。
愛された経験のない人は、そもそも他人(子ども)を愛することができない(又は、その可能性が極めて高い)。また、あるいは、愛される経験をしっかりとしなければならない(恋人にではなく)。
とすると、愛することを仕事にしたい学生の中で愛される経験をしていない学生がいたとしたら、その学生を愛することが僕の仕事なのかもしれない。(そこまでしなくてもいいかもしれないが、僕個人的には、そういう学生を親的に愛してあげたい)
短い期間でどれだけできるか分からないが、親や身近な人に愛されてこなかった学生たちを認め、許し、受け入れ、愛してあげることが、保育者や教師を育てる僕らの仕事なのかもしれない(し、そうではないかもしれない)。
だから、僕は「愛すること」にこだわるのだ。(ただし、愛することを教授することを通じて、愛することの重要性を訴えるのみ)
●他人を愛することができるためには、自分を愛していなければならない。
●自分を愛するためには、まず特定の人に愛されなければならない。
●特定の人に愛されなかった人は、別の誰かに愛されなければならない。
●そういう人を愛する人(教師や保育士、刑務所職員、警察官、弁護士など)は、まずその人自身が愛されていなければならない。
やはり、どう考えても、しっかり愛されている人しか、やはり愛することを教えること(=許し、認め、受け入れること)はできないのではないだろうか。
誰もが愛されることを望んでいる。
愛されなかった人は、愛されなかったことに苦しんでいる。
愛してくれる人がいれば、その人は過ちを犯さなかったかもしれない。繰り返される残虐な事件の背後に、愛への呻きを感じずにはいられない。罪を憎んで、人を憎まず。やはり「魂の貧困」、「愛の貧困」がそういう事件を引き起こすのだと思う。
いずれにせよ、愛されなかった人に愛を与えることができるのは、しっかりと愛された人だけである。愛されている人しか、愛されていないことに苦しむ人を救うことはできない。
とすると、
しっかりと愛された人には人を愛する義務がある。
愛された人は、「愛する」という何にも変えがたい宝物をもっているのだから。愛されている人こそ、たくさんの愛情をしっかりと他者に与えることができるのだし、その資格が与えられているのだ。愛された人、愛されている人だって、特定の他者に愛されたからこそ、愛する能力を得ることができたのだ。それは、その人の努力によるものではなく、「たまたまそのように与えられた」だけなのだ。
だから、愛することができる人は、惜しみなく愛を人に与えてあげてもらいたいのだ。僕はそれを願っている。