現代の社会、僕らの生活、僕らの人生は、巨大なシステムによって管理され、監視され、支配され、コントロールされつつあるように思う。かつてよりもより複雑な仕方で、また曖昧な仕方で、そして、よりクリアな仕方で、僕らのLIFE/LEBENがコントロールされているように思う。人工知能AIの発展の影響もあり、どんどん僕らの生活世界は、僕ら自身の判断によらない意思決定のシステムが構築されつつある。もはや、僕らは、そうした巨大なシステムを前にして、何もできなくなってきている。
為す術なし、か。
では、巨大なシステムとは何か。その一つは、今日なお多大な影響をもつ「国家」であろう。とはいえ、国による僕らの支配は、かつてのような強制的な外圧による支配ではない。そうではなく、僕らの側が国家権力に依存するようにいわば「マインドコントロール」するような仕方での内圧的な支配である。僕らは、見えないシステムの中で、自分から自ら、国家権力に依存し、依拠したくなるように、仕向けられているのである。つまりは、「なんとなく、国家って大事だよね」「なんとなく、アベちゃんでいいよね」、というような仕方で、ますます国家依存の体質になっていくのである。「アメリカファースト」でも「東京ファースト」でもいいし、EUの離脱を表明したイギリスでもいい。現代社会は、ますます「国家」という目に見えない大きなシステムに飲み込まれようとしている。
僕ら自身が、国家権力にぶらさがり、それなくしては生きていけないようにさせられている時代が、今という時代なのだろう。具体的にいえば、面倒くさいことは全部警察頼み。老後の生活は年金頼み。子育ても行政サービス依存。教育は国家依存+教育ビジネス依存という奇妙な依存。結婚相手を探すのも、最近は行政サービスに入っていたりもするし、きちんとした離婚も自分たちだけでできなくなり、離婚調停(=家庭裁判所)を通じてしかできなくなっている。僕らのプライベートな生活の多くが、国家・行政頼みになっている。
それだけじゃない。電力問題もしかりである。僕らはいつの間にか、電気のない生活ができなくなってしまった。電気がなくても死ぬわけじゃないのに、電力なしではもはや誰も生活できないくらいに、電力に依存している。生活を支える労働においても、電力にぶらさがっている。だから、今議論されているように、あれほどの被害を受けているにもかかわらず、原発再稼働を止めることができない。僕らは、電力という権力にすがるしかないほどに、弱っている。また、原発にすがることを拒絶しても、火力を起こすためのエネルギー資源を海外から法外のお金を投入して、電気を起こさなければならない。もはや、僕らは電力から自由になることはできない(と思い込まされている)。だいたい、この人類の歴史で、人間はずっと「電気」のない生活をしながら、生きてきたのである。僕らの本来の存在=実存は、電気などなくても、生きていけるのである。
少し話を戻そう。
巨大なシステムは、国家だけではない。「専門家」もまた、その一翼を担っている。専門家にぶらさがらなければ生きていけない(と洗脳されている)。今の時代、何でもかんでも専門家だ。<専門家化>の流れは、実はとても古くて、古代にまでさかのぼるとも言われている。ただ、今日ほど、僕らの生活全体が専門家にゆだねられている時代はなかったはず。僕らは、あらゆることを、専門家に委託して生きている。その流れはますます加速している。しかも、その専門家を専門家たらしめるものは、国家が承認した資格や免許である。専門家というのは、ある意味で、国家の番人・管理人である。その専門家に、何もかも頼っているのが、僕ら今の生身の人間たちだ。
前にテレビで聞いた話だけど、60年代の音楽アーチストは、メイクも衣装も全部自分で行っていたという。プロモーションもアーチストが自ら行っていたという話もある。けれど、今は、メークする専門家、衣装を揃える専門家がいて、 ステージに立つまでの準備を専門家にゆだねている。作詞・作曲といった活動では、アーチストが自ら行うケースも増えているけれど、それ以外については専門家にゆだねるケースが圧倒的だ。プロと言えば聞こえはいいが、「一芸に長けただけの存在」なだけである。一芸に長けた人間は、何か一部分こそ突出しているが、全体的なまとまりには欠けている。
「外部委託」は、まさにここで述べたい「人間の自主性」を阻むものである。
「食べる」という行為も、専門家にゆだねることとなった。戦前はまだ外食はそれほど大きな力にはなっていなかった。戦後になり、「料理をする」という行為は、専門家たちの手に大きくゆだねるようになった。飲食店だけではない。スーパーやデパ地下の総菜コーナーも同じである。家でまともに料理をして、それだけにとどまる家庭はもはやほとんどいない。おせち料理も、今や(若い世代においては)外部委託が圧倒的だ。
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僕の問題意識の根幹に、「人間の自由」というのがある。人間は、本来的に言って、誰にも何にも縛られず、自由に生きることができる、と僕は信じている。ロック精神的にも、学問的にも、そう思っている。もちろん、誰かれ構わず、己の自由を主張したいわけではない。人間は、他者とともに生き、他者の影響を受けている存在(共存在)なので、完璧に一人で自由を謳歌することはできない。意識レベルのみならず、無意識レベルで、僕らのあらゆる思考・思惟は、まわりの他者・環境に左右されているので、何にもとらわれないで、自由に生きることができる、というのは、たしかに「空想」かもしれない。
だが、そういう他者と共なる生き方も、誰かに規定されるのではなく、自分と他者で決めていくこともできるだろう。巨大なシステムに飲み込まれることなく、そこは自分たちで決めたい。SNSの発展もあり、僕らは、すぐに多くの人と語ることのできるツールをいくつも見い出してきている。
そうした考えの根幹にあるのが、「Existentialism=エグジステンティアリズム(=実存主義)」だったはずだ。このエグジステンシャリズムは、80年代くらいからあっという間にその力を失い、今ではそういう思想があったことさえ知らない若い世代がたくさんいる。エグジステンティアリズム的な生き方は、もはや話題にすらならないところまで、闇に葬られたように見える。
http://en.wikipedia.org/wiki/Existentialism
英語での説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9
日本語での解説
http://note.masm.jp/%BC%C2%C2%B8%BC%E7%B5%C1/
基本的な説明
http://www.glocalnetwork-veritas.com/lifemeaning.html
ちょっと深い説明
「自分たちの生活や活動を、国家や企業に依存しないあり方」の模索は既に始まっている。
その一つがアスリートの世界で起こっている。日本のアスリートたちは、自分たちの活動費を調達することが難しい。無職?だった藤原新さんは、ニコニコ動画を使って、自ら一般の人にスポンサーとなるよう呼びかけたのだ。そして、20000人のスポンサーが集まり、およそ1000万円を集めたという。
https://secure.nicovideo.jp/secure/entry_fujiwaraarata
国家や企業、あるいは何らかの専門家にぶらさがる生き方から抜け出し、自分たちで自分たちの活動を守る、そして、自分たちの活動を進めていく、そういうインディペンデントで主体的な活動は確かに生まれ始めている。
赤ちゃんポストの取り組みもそうだ。国や行政がきちんと緊急下の女性たちへのサポートをしていれば、こんな装置が作られることはなかっただろう。国家も企業も専門家もどうすることもできず、また、手をこまねいていたからこそ、赤ちゃんポストは生まれたのである。日本でも、地方の個人の病院が独自の思想と哲学を基に始めたものだった。だが、システム的には、母子を守るという視点ではなく、悪人である母から子どもをどう保護するかという冷たい視点しか、今の福祉行政にはない(ちょっと極端にいえば)。
そこにこそ、次世代の「実存主義」の意義があるように思えてならない。どれだけ複雑で巨大なシステムが構築されようとも、また、どれだけ高度なAIが開発されようとも、それに依存しないで、新たな可能性を提示することはできる。AIは、今後、「100%安全なのは、この道です」と提示してくれるようになるだろう。でも、AIは新たな道を作ることはしないだろう。どの道がデータ的に安全かを予測できても、別の新たな道を作るようにはならないだろう。データというのは、全て「過去に起こったことの集合体」でしかない。
どの道を進むべきかについては、人間以上に正確にシステムが応えてくれるだろう。
しかし、新たな道をつくることについては、人間にしかできないことだろう。
これからの時代を生きる上での、人間哲学が、「ネオ・エグジステンティアリズム」と言えるだろう。
これからは、「ネオ・エグジステエンティアリズム」という視点についても、しっかり勉強していきたいなぁ、と思っています。