先日、大分のこども園で、痛ましい事件が起こった。
大分県宇佐市四日市の認定こども園「四日市こども園」に男が侵入し、小学生や女性職員がけがをした事件で、県警は11日、銃刀法違反容疑で逮捕した近くの無職、射場(いば)健太容疑者(32)を殺人未遂と傷害、建造物侵入の容疑で再逮捕した。射場容疑者は女性職員らを傷付けたことは認めているが、殺意については否認しているという。
逮捕容疑は3月31日午後3時20分ごろ、職員や子供を殺傷する目的で同園に侵入。園内の学童保育に来ていた当時小学3年の男児(9)と女性職員(38)を竹刀でたたいてそれぞれ1週間のけがをさせた他、41歳と71歳の女性職員2人にナイフで切り付けてそれぞれ10日間と2週間のけがをさせたとしている。このうち71歳の女性職員に対しては刃物で顔面を切りつけていることなどから殺意があったと判断した。
捜査関係者らによると、射場容疑者は小中高校時代にいじめに遭って長年、自宅でひきこもり状態だった。動機については「自暴自棄になり、世間を騒がせたかった」などと供述しているという。
32歳の男性が、竹刀とナイフをもって、こども園に侵入し、園児と職員らを竹刀で叩き、ナイフで切り付けた、という事件であった。
この彼は、小中高時代に「いじめ」にあい、「ひきこもり」だったという。そして、動機は、「自暴自棄になり、世間を騒がせたかった」、と供述しているという。
この事件を聞いて、過去に起こった数々の事件を思い浮かべると共に、今後のことをふと思った。
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今、日本では、次々に保育園やこども園が増えている。近隣住民との間のトラブルも増えているという。
もちろん「こどもは宝」だし、「未来の日本の大切な担い手」である。
が、実際のリアルの子どもは、「騒がしい」し、「うるさい」し、「マナー」も知ったこっちゃない存在であり、多くの大人から忌避される存在でもある。どれだけ有能な大人でも、怒ることなしに、抑えつけることなしに、彼らを制御することは難しい。
そんな「子ども」という存在は、「最も弱い存在」でありながら、不幸な人間からすれば、「最も幸せな存在」に見えてくる。
何か嫌なことや死ぬほど辛いことがあると、その人にとっては、子どもが最も憎むべき相手にもなり得る。
一般的にも、人間の不満や怒りは、自分より「弱い存在」に向かう。もちろん、正義感の強い人や知的な人は、その不満や怒りを、自分より強い存在に向けるが、正義感が乏しく、またとりわけ知的でない人は、その不満や怒りを、自分より弱い存在へと向けていく。
児童虐待はその典型例だろう。もし親に知性があり、分別があり、正義感が強ければ、どれだけ不満や怒りがあっても、まず虐待はしない。だが、一部の親は、暴徒化し、自分よりはるかに弱い存在である「わが子」に手をあげたり、暴言を吐いたり、無視したりしている。
上の彼も、32歳と立派な成人でありながら、自暴自棄になり、その怒りや不満の矛先として、こども園の園児たちを「選んだ」。
もし、彼にある程度の分別があれば、行く先はこども園ではなく、国会議事堂だっただろう(それを分別と呼んでいいかは微妙だけど)。オウム事件の場合、かなりエリート層の人間がいて、彼らの怒りの矛先は、「丸の内線沿線」だった。彼らは、自分たちより弱い存在に、ではなく、自分たちよりもはるかに大きな存在に対して、怒りの矛先を向けた(が、実際に被害に遭われたのは、地下鉄に乗っている乗客だった、という悲劇…)
否、彼が本当に怒りの人であれば、自分より幸せで、自分より富をもっている「成功者」を妬み、彼らに怒りの矛先を向けるだろうし、そうすべきである。それが、ある種のレジスタンス精神だ。
だが、彼は「いじめ」を受け続けるほどに、自分自身も「弱い存在」だった。そして、「ひきこもり」だった。
弱い存在であった32歳の男性が目指したのは、自分よりもはるかに弱い存在である子どもたち(と園にいる女性たち)だった。
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昨年、相模原の障害者施設で、戦後最大級の大量殺人事件が起こった。
その犯人である植松聖氏もまた、教師を目指しつつも、それを達成できず、大きな劣等感を抱え、おそらく本人的には本意ではないであろう仕事をし、不満や怒りをバクバクと感じていたであろう、と推測する。
彼もまた、彼の中では、「弱者」、「負けた人間」だったのだろう。自暴自棄、というか、彼からは「絶望」しか感じなかった。彼を見て、「幸せそう」とはきっと彼の周囲の人間は誰も思わなかっただろう。
彼もまた、「弱い存在」でありながら、障害者の中でも最も重度な障害をもつ人たちを次々に殺していった。彼の中にある怒りや不満は、最も障害のレベルの高い人たちへと向けられたのだった。
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子どもや障害者、女性、高齢者は、いわゆる福祉的な意味での弱者でありながら、最も幸せそうに見える存在者である。
その中でも、子どもというのは、最も身近にいて、最も疎ましく思える存在である。
まず、子どもたちはうるさくて、騒がしい。
自暴自棄になった人が、子どもたちに怒りを向ける気持ちも(共感はできないが)理解はできる。
とするならば…
僕らにできること、目指さなければならないことは、この世の人々が「自暴自棄」にならないこと、であろう。
自暴自棄になる人がいなければ、「治安」は維持される。
それは、個人だけではなく、国についてもいえる。かつての日本は、僕の歴史認識では、「自暴自棄」の末に、真珠湾攻撃を仕掛けた、と思っている。色々な経済制裁が入り、世界から孤立し、国内も混乱し、自暴自棄になり、戦争へと向かっていった。
今、極度に緊張感を増している北朝鮮も、世界各国から目を付けられ、「自暴自棄」になっているようにも見える。国が自暴自棄になった時、おそらく国は戦争を始めるのだろう。(とはいえ、アメリカみたいに、軍事産業を守るために、冷静に戦争を仕掛けることの方がよっぽど「野蛮」なんだけど…)
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話が大きくなったけど、いずれにしても、弱者の怒りを含めて「あらゆる迫害」は、さらに弱い存在、しかも自分より幸せそうな存在に向けられる、というアドルノの指摘は、間違いなく正しいと思う。
恐らく、この事件を受けて、更に幼稚園や保育園・こども園の管理体制は整えられるだろう。防犯カメラももっと増えるだろう。職員の危機管理の講習も増えるだろう。
でも、それをいくらしても、問題の本質は変わらない。
世の中に絶望し、自暴自棄になる人が出てくる以上、こうした事件は今後も繰り返されるだろう。
理想論的に言えば、「誰もが絶望しない社会」「誰もが自暴自棄にならない社会」を作らないことには、この社会から、この手の事件がなくなることはないだろう。
この手の事件の犯人の顔をじっと見つめてみると、幸せそうな人はほとんど、というか、一人もいない。秋葉原のあの事件の犯人の顔を思い浮かべても、また彼の生い立ちを見ても、決して幸せと呼べるような人生ではなかったと思う。
今回の事件を引き起こした射場氏は、どんな人生を送ってきたのだろう。どんな家庭で育ったのだろう。どれだけのいじめを受けたのだろう。ひきこもっている間、どんなことを想っていたのだろう。どこで自暴自棄になったのだろう。なんでこども園を狙ったのだろう。彼を愛してくれる人はいたのだろうか。彼の存在を肯う人はいたのだろうか。彼に拠り所はあったのだろうか。
少しでもいい。
被害にあった子どもや職員さんのことだけではなく、加害者の側である射場氏のことも、ふと考えてほしい、と。
この手の事件の場合、射場氏もまた、この国に生まれ、この国で育ち、そしてこの国に絶望した人なのだから。
(だからといって、愛国心教育をしたところで、彼がどうなるということは全くないと思うが…)
子どもを含め、幸せそうに見える社会的に弱い人たちを忌避する心を断つことが、こういう事件を二度と引き起こさせないための条件となる。忌避する心を断つために、僕らは何ができるだろうか。教育で何ができるだろうか。
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