僕の甥っ子君(4)です 8月から僕はちょっと訳あって、彼と共同生活を送っている。彼のお母さんももちろん一緒だ!
彼は、すでに4歳にして、ディルアングレイとサディが大好き(っていうか、好きにさせてしまった・・・)。朝起きると、「ねえ、サディ、見ようよ」、といってDVDをせがんでくる。
ギターを手にすれば、大声をあげて歌い、ベースを手にすれば、「これ、おもいよ~」と言って泣き、ドラムセットに座らせれば、「ちんちんぶらぶらそーせーじ」と叫びながらリズムをきざむ・・・ 挙句の果てには、ボーカリストも体験し、一流シンガー気分。
そんな彼は、V系の才能ばっちり♪
この写真がそれを物語っている
かっこいいでしょ。まさにV系そのもの(苦笑)
とってもかわいい甥っ子なのです。
ちなみに、彼は、メリーとか、ナイトメアとか、ルナシーとかはダメみたい。ガゼットはOK。サディとディルアングレイがいいみたい。子どもの反応は面白くて、サディとかだと、奇声をあげながら、暴れまわり、我を忘れて、踊り狂う。しかし、NGなバンドの場合、興味をなくし、テレビ画面を見るでもなく、別のことをしはじめてしまう。そして、挙句の果てには、「もぉ、ええわ・・・」、と呟いて、部屋を出て行ってしまう。(ファン心理と同じ?!)
彼の表情はとても豊か。なんともいえないあどけなさがある。
どんどん変わりゆく甥っ子の姿に、ママも真っ青(でも、そんなママも元はV系ファン♪)
しかし、keiの目からみて、彼にはV系の才能がある
是非、頑張って、ロックンローラーになってくれたまえ
●これまでkeiは色んな訳ありの子どもと主に関わってきた。今回、とりたてて訳ありではない子どもとじっくり関わってみて、学ぶことは多くあった。また、訳があろうとなかろうと、子どもは子どもだし、個性は誰にでもあるし、あまり変わりはなかった。だが、彼のように五体満足、心身ともに何の問題もなく育っている子どもは、とても楽だということが分かった。子育てはたしかにたいへんだ。だが、世の中には色々な厳しい状況に立たされる子どもがたくさんいる。僕はそういうたいへんな状況下にある子どもたちをたえず想定して、子どものことを考えてきた。そういう意味では、甥っ子の対応はすごく楽で、快適であった。
●4歳の彼は言葉が通じる。「止まって!」と叫べば止まってくれる。一人でご飯を食べてくれる。箸を使ってくれる。嫌なことは「いや」と言ってくれる。赤信号で止まってくれる。トイレに一人で行ける。手を一人で洗ってくれる。お母さんや親しい他者に思いっきり甘えられる。笑える。怒れる。走れる。服を自分で着ることができる。これらはどれも奇跡的なことなのだ。僕はそう思う。
●甥っ子を見ていると、五体満足ではない子どもたちやその母親のたいへんさ、辛さを身をもって感じる。だが、その一方で、五体満足ではない子どもたちとのかかわりにおいて得られる感動の大きさ、尊さも同時に痛感する。
●「当たり前にできること」への反省。「子育て」にかかわる研究者として、この精神は持っておきたい。当たり前にできることは、実は当たり前ではないのだ。親や教師は、自らの経験が確固たる真実であると判断し、そのことを自明のこととして受け取っている。そして、その判断はぐらつくことなく、当然のこととして受け取っている。だが、その判断はそれほど確固たるものではなく、非常に揺らいでいるはずなのである。一人の子どもをじっくり見るときであれ、複数の子どもを全体的に見るときであれ、基本的な態度は同じであり、それは、「子どもの行動の意味を固定化しない」ということにある。「●●することができない」=「ダメな子ども」といったように、行為から意味を簡単に引き出すべきではない。逆に、「●●することができる」=「いい子ども」という見方も非常に疑わしい。どの子どもも-しいては大人も-できること、できないこと、まだできないこと、あと少しでできること、いずれできること、色んな可能性を持っている。大人は、そのつど、その子どもの状況を見極めて、そのつどその子どもへの理解を別様に変えていかなければならない。
・・・そんなこんなで、甥っ子から日々学んでいます。