Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「みんな」がダメなら「ひとり」を楽しもう!

先日、「おひとりさま」について記事を書きました。

「おひとりさま時代」をポジティブに生き抜こう!-コロナ禍の若者たちへ-

その続編というか、なんというか、、、。

***

ひとり。

この言葉が、今の時代に妙にしっくりくるんです。

長期化する「コロナ禍」。僕らの生活は本当に一変しました。

色んなことができなくなり、活動も制限され、移動の自由さえ脅かされています。

何が断たれたのかというと、ずばり「みんな」ではないでしょうか。

みんなで何かをする、みんなで何かを食べる、みんなでどこかに行く…。

人と人とが接することで「感染」が生じる。

みんながそのことに怯え、警戒し、恐れている。

それまで当たり前だった「みんなで」というのが根こそぎ消えてなくなっています。

その代わりに、でてくるのが「ひとり」という言葉ではないでしょうか。

***

コロナ禍が続く中、僕らが学ぶべきは「ひとり」という存在様式なのでは?!

ひとりで存在するというのは、とても寂しく辛いものであります。

でも、「ひとり」というのは、人間が生きる上で大事なことでもあります。

前に、この山折先生の本を読んだことがあります。

この本でも、「ひとりを生きること」の意味が記されています。

ひとりでいること、ひとりで何かをすること、ひとりで何かを考えること、ひとりで本を読むこと、さらには、ひとりで瞑想すること、ひとりで思索すること…。

こういう営みって、人間が生きる上で欠かせないことだと思うんです。

当然、人間はひとりでは生きていないし、誰かの助けがなければ生きていけないし、自分がこうしてどこかに存在しているということは、誰かの恩恵を受けている。

今、この記事をスマホで読んでいる人は、そのスマホを作った人の恩恵があるから、読めているわけですし、今、椅子に座っている人は、その椅子のおかげで、心地よい状態でこれを読めているわけです。

そういう次元では、たしかに人はひとりでは存在していない。

けれど、そうは言っても、自分は自分でしかないし、他人になるわけではない。この記事を読んでいるのは、「あなた」であって、別の誰かではない。

ひとりでいるそのあなたは、やはりひとりで存在しているわけです。そして、これを書いている「わたし」もまた、他ならぬわたしなわけです。

生まれてくるときも、ひとりで生まれてくるし、死ぬ時もきっとひとりで死んでいくわけです。

この「ひとり」を生きるという実践(プラクシス)は、コロナ禍の最中だからこそ、徹底してできることかもしれません。

そして、その「ひとり」を徹底的に生きることで、僕らは、その「自分を捨てる」という境地までたどり着いてしまうかもしれません。

東洋の思想では、無(nothingness)や無我(selflessness)が尊いものとして語られます。修行等によって、徹底的に「世間」から距離を取ることで、我と向き合い、そして、最終的にその我を放下していく。つまり、自分を捨てていくんです。

自分を捨てた人は、自分がない人ではありません。自分がない人は、「悟り」から遠く離れた存在者であり、積極的に「無」の世界を目指す存在者ではありません。

自分を捨てた人は、何も欲しません。何も望みません。何も求めません。欲したり望んだり求めたりする<自分>を捨てたからです。心の中は、当然ながら<無心>であります。

ひとりになり、ひとりを生き、そしてひとりを目指すということは、こういう状態を目指すということになります。古代ギリシャのエピクロスの言う「アタラクシア」の状態にも通じることと思います。


エピクロスは決してあくなき感覚欲求の追及を教えてはいない。むろん彼は、幸福を人間に固有な目的としているし、その幸福を非常に簡素に、快の獲得と不快の回避と定義している。だが、エピクロスは、「あらゆる種の度を越えたぜいたくは、なおさらより痛みを伴う悪化だけを招くだけであろう」ということを知っていた。ゆえに、理性が、幸せへの労力を導き、自制しなければならないのである。けれども、この理性は、「本来的な幸せは、むしろ朗らかな平穏のうちに、つまり、精神(魂)の安定した安らぎ(アタラクシア)のうちに見出される」ということを教えてくれる。

引用元はこちら(僕のかつての翻訳記事より)


長引くこのコロナ禍の日々ですが…

そうだからこそ、僕らは今、「みんなで」という発想を一度留保(エポケー)して、「ひとりで」という思想に向けて、歩む方が、得るものが大きいのではないでしょうか?

恐らく、欧米のどこかの国が「有効なワクチン」を見つけ、それが世界に回れば、この騒動はおさまるでしょう。そうすると、きっと「コロナ以前の生活」にあっという間に戻ることでしょう。

そうすると、「ひとりで」なんていう発想はすぐに忘れられ、また「みんな地獄」の穴の中に後戻りしてしまいます。

「ひとり」が忘却され、「みんな」に飲み込まれるんです。

となると、ますます、こういう時期だからこそ、「ひとりで」という冒険的な試みを続けた方がよいのではないか、と思うのです。

公衆衛生の専門家もこう言っています。


感染を広げているメカニズムをちょっと考えたら、寂しいけど一人で飲むか、どうしても複数で飲みたいならオンライン飲み会をすればいい。

引用元はこちら


ひとりで酒を呑む分には、感染は広がらない、と。

ここでも「寂しいけど」とあります。

ひとりは寂しいんです。でも、ひとりでなら呑めるのです。(オンライン飲み会は「みんな」に戻ってしまうので、ほどほどに…)

具体的にひとりで何をするかというと…

●ひとりで普段読まない分厚い本を読む

●ひとりで音楽を聴きながら、物思いにふける

●ひとりで映画を見る(映画館も今感染予防を徹底しています)

●ひとりでどこかに食べに行く(とくに人の集まらないお店に)

●ひとりでどこか見知らぬ土地に行き、そこでしか経験できないことをひとりで探す

●ひとりであてのない旅にでる(自転車、自動車、バイク等でも可)

●ひとりで歴史の旅にでる(本の中であってもよい)

●ひとりでぶらぶらと散歩する(散歩は哲学の実践)

こういうことなら、きっと誰も文句は言わないでしょう。

ひとりは寂しいものです。ひとりでどこかに行くのも寂しいものです。

でも、そもそも人生とは寂しいものであり、生きるということはそういうものでもあります。

このことを知るためにも、「ひとり」を学ぶことにはきっと意味があると思います。

Come on, let's go on a trip alone, against Covid-19!

Life is a long way of living alone.

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事