先日、「おひとりさま」について記事を書きました。
>「おひとりさま時代」をポジティブに生き抜こう!-コロナ禍の若者たちへ-
その続編というか、なんというか、、、。
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ひとり。
この言葉が、今の時代に妙にしっくりくるんです。
長期化する「コロナ禍」。僕らの生活は本当に一変しました。
色んなことができなくなり、活動も制限され、移動の自由さえ脅かされています。
何が断たれたのかというと、ずばり「みんな」ではないでしょうか。
みんなで何かをする、みんなで何かを食べる、みんなでどこかに行く…。
人と人とが接することで「感染」が生じる。
みんながそのことに怯え、警戒し、恐れている。
それまで当たり前だった「みんなで」というのが根こそぎ消えてなくなっています。
その代わりに、でてくるのが「ひとり」という言葉ではないでしょうか。
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コロナ禍が続く中、僕らが学ぶべきは「ひとり」という存在様式なのでは?!
ひとりで存在するというのは、とても寂しく辛いものであります。
でも、「ひとり」というのは、人間が生きる上で大事なことでもあります。
前に、この山折先生の本を読んだことがあります。
この本でも、「ひとりを生きること」の意味が記されています。
ひとりでいること、ひとりで何かをすること、ひとりで何かを考えること、ひとりで本を読むこと、さらには、ひとりで瞑想すること、ひとりで思索すること…。
こういう営みって、人間が生きる上で欠かせないことだと思うんです。
当然、人間はひとりでは生きていないし、誰かの助けがなければ生きていけないし、自分がこうしてどこかに存在しているということは、誰かの恩恵を受けている。
今、この記事をスマホで読んでいる人は、そのスマホを作った人の恩恵があるから、読めているわけですし、今、椅子に座っている人は、その椅子のおかげで、心地よい状態でこれを読めているわけです。
そういう次元では、たしかに人はひとりでは存在していない。
けれど、そうは言っても、自分は自分でしかないし、他人になるわけではない。この記事を読んでいるのは、「あなた」であって、別の誰かではない。
ひとりでいるそのあなたは、やはりひとりで存在しているわけです。そして、これを書いている「わたし」もまた、他ならぬわたしなわけです。
生まれてくるときも、ひとりで生まれてくるし、死ぬ時もきっとひとりで死んでいくわけです。
この「ひとり」を生きるという実践(プラクシス)は、コロナ禍の最中だからこそ、徹底してできることかもしれません。
そして、その「ひとり」を徹底的に生きることで、僕らは、その「自分を捨てる」という境地までたどり着いてしまうかもしれません。
東洋の思想では、無(nothingness)や無我(selflessness)が尊いものとして語られます。修行等によって、徹底的に「世間」から距離を取ることで、我と向き合い、そして、最終的にその我を放下していく。つまり、自分を捨てていくんです。
自分を捨てた人は、自分がない人ではありません。自分がない人は、「悟り」から遠く離れた存在者であり、積極的に「無」の世界を目指す存在者ではありません。
自分を捨てた人は、何も欲しません。何も望みません。何も求めません。欲したり望んだり求めたりする<自分>を捨てたからです。心の中は、当然ながら<無心>であります。
ひとりになり、ひとりを生き、そしてひとりを目指すということは、こういう状態を目指すということになります。古代ギリシャのエピクロスの言う「アタラクシア」の状態にも通じることと思います。
エピクロスは決してあくなき感覚欲求の追及を教えてはいない。むろん彼は、幸福を人間に固有な目的としているし、その幸福を非常に簡素に、快の獲得と不快の回避と定義している。だが、エピクロスは、「あらゆる種の度を越えたぜいたくは、なおさらより痛みを伴う悪化だけを招くだけであろう」ということを知っていた。ゆえに、理性が、幸せへの労力を導き、自制しなければならないのである。けれども、この理性は、「本来的な幸せは、むしろ朗らかな平穏のうちに、つまり、精神(魂)の安定した安らぎ(アタラクシア)のうちに見出される」ということを教えてくれる。
引用元はこちら(僕のかつての翻訳記事より)
長引くこのコロナ禍の日々ですが…
そうだからこそ、僕らは今、「みんなで」という発想を一度留保(エポケー)して、「ひとりで」という思想に向けて、歩む方が、得るものが大きいのではないでしょうか?
恐らく、欧米のどこかの国が「有効なワクチン」を見つけ、それが世界に回れば、この騒動はおさまるでしょう。そうすると、きっと「コロナ以前の生活」にあっという間に戻ることでしょう。
そうすると、「ひとりで」なんていう発想はすぐに忘れられ、また「みんな地獄」の穴の中に後戻りしてしまいます。
「ひとり」が忘却され、「みんな」に飲み込まれるんです。
となると、ますます、こういう時期だからこそ、「ひとりで」という冒険的な試みを続けた方がよいのではないか、と思うのです。
公衆衛生の専門家もこう言っています。
感染を広げているメカニズムをちょっと考えたら、寂しいけど一人で飲むか、どうしても複数で飲みたいならオンライン飲み会をすればいい。
ひとりで酒を呑む分には、感染は広がらない、と。
ここでも「寂しいけど」とあります。
ひとりは寂しいんです。でも、ひとりでなら呑めるのです。(オンライン飲み会は「みんな」に戻ってしまうので、ほどほどに…)
具体的にひとりで何をするかというと…
●ひとりで普段読まない分厚い本を読む
●ひとりで音楽を聴きながら、物思いにふける
●ひとりで映画を見る(映画館も今感染予防を徹底しています)
●ひとりでどこかに食べに行く(とくに人の集まらないお店に)
●ひとりでどこか見知らぬ土地に行き、そこでしか経験できないことをひとりで探す
●ひとりであてのない旅にでる(自転車、自動車、バイク等でも可)
●ひとりで歴史の旅にでる(本の中であってもよい)
●ひとりでぶらぶらと散歩する(散歩は哲学の実践)
…
こういうことなら、きっと誰も文句は言わないでしょう。
ひとりは寂しいものです。ひとりでどこかに行くのも寂しいものです。
でも、そもそも人生とは寂しいものであり、生きるということはそういうものでもあります。
このことを知るためにも、「ひとり」を学ぶことにはきっと意味があると思います。
Come on, let's go on a trip alone, against Covid-19!
Life is a long way of living alone.