『誰にも言えない』
今、杉山春さんの『ルポ虐待』を読んでいる。大阪二児置き去り死事件の渾身のレポだ。
(少し前の記事なのでタイムラグがあります。もう読み終えました)
この本の中で、母親の「下村早苗」と思われる「芽衣さん」(仮名)のことが赤裸々に描かれている。
杉山によれば、芽衣さんが二人の子どもを放置して、男の家に居ついていた時に、そのマンションの住民が、大阪市?の「こども相談センター」の「児童虐待ホットライン」に何度も通報している、ということだった。
こども相談センター
http://www.city.osaka.lg.jp/kodomo/page/0000002786.html
最初の通報が、2010年3月30日。そして、二児の遺体が発見される7月30日まで、こども相談センターの職員たちは、この二人を保護することができなかった。
ここで、僕はこども相談センターを責めたてようとは思っていない。ただ、このこども相談センターにおける問題点を少し考えたくなった。
上のホームページには、こう書かれている。
こども相談センターでは、こどもに関わるさまざまな相談を受け、それぞれのお子さんに適した支援(助言・指導・施設入所など)を行っています。大阪市内に住む18才未満のお子さんのことであれば、なんでもお気軽にご相談ください。お子さん本人からの相談もお受けします。
相談内容は、
(1)親の病気、家出、離婚などのため家庭で子どもを育てるのがむずかしい
(2)家出・盗み・シンナー吸引などがあり困っている
(3)ことば、運動などの発達が心配
(4)不登校、ひっこみじあん、落ちつきがない、乱暴、性格や行動面で困ることがある
(5)児童虐待
(6)家庭で育てられない子どもの里親になりたい、または養子を迎えたい
(7)こどもの学習や対人関係について、担任の先生と一緒に相談したい
このほかにも、こどもについて悩んでいることや、相談したいことがあればご連絡ください。
この文章は、他県でもよく見られる一般的なものと考えてよいだろう。この説明自体には(さしあたって)問題はない。しかし、こうした悩みを抱えている人が、このサイトにどれだけたどり着けるか、そして、これを読んで、「相談しよう」と思うかどうか、疑問は残る。
では、相談を受けて、どんな人がどのように対応するのだろうか。
ケースワーカー(児童福祉司)、心理相談員(児童心理司)、医師、教職経験者などの専門の職員がご相談をお受けします。
ご相談をお受けすると、まずはお話しをうかがい、必要に応じて発達検査や心理検査および医師による診察などを通して、お子さんの状態を把握します。
ここで、「専門の職員」と挙げられており、具体的には、ケースワーカー、心理相談員等が挙げられている。一般の人にはなかなか分かりづらいだろう。児童福祉司は、主に社会福祉等を大学で4年間勉強し、児童相談所等に配属される「事務職員」である。少々厳しく言えば、社会福祉学科等で学部生として4年間大学で勉強した普通の人、ということになる。心理相談員は、心理学等をやはり大学で勉強してきて、その後に児童相談所等に勤務する者をいう。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2315849.html
(ここはブログなので)ややアイロニカルに言うと、専門職として聞こえはよいけれど、他の一般の人と同じ程度に大学生として勉強してきた学士であり、学ばれている内容も、厳しく見れば、「緊急事態」に対応できるほどの知恵や能力を促進するものではないのである。社会福祉関連の教科書やテキストを読めば、よく分かることだ。
社会福祉にせよ、心理学にせよ、「理論っぽいこと」を一通り学ぶが、「危機対応」についてはほとんど学んでいない。「相談=カウンセリング」についても一通り学びはするが、原則として、「相談に来た人」を前提としており、「相談に来ない人への対応」は学んでいない。「相談してね」と呼びかけ、相談できる人の相談に応じる、それが、リアルだと思われる。「【来談者】中心療法」という言葉が今も専門教育の現場で大事に説明されていることをその例に挙げておこう。(*来談者中心療法は、カウンセラーや相談員にではなく、クライエント(=来談者)をまずその中心に置き、指示を出さない(非指示)で、クライエントが自ら自己の問題を解決できるように支援する、というものですが、この概念においては、相談に来た人を前提にしており、相談に来ない人を想定していない、という意味で、問題がある、と言いたいのです→ツイッターでのご意見を受けて)
芽衣さんの話は、ここに直結する。芽衣さんは、一度このこども相談センターに電話を入れているが、すぐに電話を途中で切った、とされている。相談するだけの「言語」をもっていない、あるいは、「相談すること」それ自体を学んでいなかった、と考えられる。色んな事情から相談することをためらう人、相談することができない人、それが、支援の対象者の大多数なのではないか(昨日NHKで放送されたシングルファーザーの番組でも、「誰にも相談できない」という言葉が何度も出ていた)。
では、相談できない人の相談にどう応じるのか。
変な日本語の文章だけれど、そういう問題が、常に虐待問題には付きまとう(否、あらゆる心理社会的な問題に共通する)。本来なら、虐待してしまう(しそうになる)人を支援するのが、上の専門家の仕事である。けれど、当の親たちは、相談に来ない。だから、児童相談所等の行政機関は、法的にも、「通報」という道を選び、その道を進んでいる。
問題は、「通報を受けた後」の「専門性」である。多くの支援員たちは、ある種の使命感と責任を感じており、「なんとかしなければ」、と思っている。だが、逆説的ではあるが、それゆえに、相手は萎縮したり、警戒したりするようになる。支援を必要としている人たちは、そのことを、いわば「直感的」に会得している。しかし、それは、何も児童相談所職員たちが悪い、というわけではない。彼らも彼らの立場で真剣にこの問題に向き合っている。
お互いに合い入れないのである。
ある行政職員が言っていた。「支援が必要な人の問題を、われわれのような(支援を必要としない)人間が考えていることに問題がある。しかし、だからといって、支援が必要な人がその問題を幅広く考え、その対応策を生み出すことを求めることも難しい」、と。
ここで早急に答えを出すことは控えたい。が、一つだけ、僕がドイツで学んできたことを書いておきたい。それは、行政と民間の協働である。
日本では、子育て支援や育児相談、あるいは虐待対応等、あらゆる子どもに関する福祉的支援を、児童相談所が引き受け、その支援に取り組んでいる。地域によっては、児童相談所と民間支援団体が協働しているケースもなくはないが、まだ「行政の力」が強い。
ドイツでは、これも地域によるが、かなり積極的に民間支援団体にその実質的な援助を託している。補助金も児童相談所が民間支援団体に出している。民間団体だからこその自由さ、また、民間ゆえの近づきやすさ、というのも確かにある。もちろん民間団体のすべてがよいわけではない。それを悪用する団体も存在しない、とはいえない。けれど、子どもの福祉に関する問題は、幅広く、児童相談所だけで対応しきれていないのが現状であるし、その児童相談所だけに権限を与え、児童相談所だけに任せようとすることもまた、問題であろう。
本当に問題なのは、児童相談所の機能や現状の無力さなのではなく、児童相談所(=行政機関)に一任してしまっていて、それでよしとしているわれわれの側にあるのではないか。
常に、児童遺棄・殺害・虐待が起こるたびに、児童相談所への激しいバッシング・批判が生じる。「児童相談所はいったい何をやっているのか!」、と。それ自体は正当であろう。けれど、こうした問題は、本来は、地域住民各々の問題であったはずだ。隣近所の関係が希薄になったのは、その住民たちだけのせいではない。そういう地域社会を作ったわれわれ全体の責任である。児童相談所(=行政機関)に任せ切っているわれわれに非がないと言えるのか。
「芽衣さん」という存在を生んだのは、芽衣さんだけの力ではない。僕らと僕らの社会が「芽衣さん」とその悲劇を生んだのだ、そう考えることもできる。もう、今の若者は、彼女の名を知らない。「風化」という言葉が脳裏によぎる。僕らももう彼女のことを思い出すこともほとんどない(今の若者たちは事件の内容を話しても、思い出せない状態である)。
けれど、彼女は今もこの世に存在し、そして、今を生きている。今、彼女は何を思っているのだろうか。いつの日か、めぐりめぐって、偶然でも必然でもいい、彼女と出会い、お話してみたい、と願っている。僕の研究は、彼女のような存在を裁くのではなく、彼女のような存在を理解し、そして彼女が犯した過ちへと至るプロセスを唾棄して、新たな支援の道を拓くことにある。
よるべなき日本の社会。誰にも助けを求められず、独りで苦しんでいる人が一人でも救われるような、そういう社会のあり方を今後も模索したい、と思っている。理想論かもしれないけれど、そういう理想がなければ、とても冷たい社会になってしまうように思えてならない。