先日、長年にわたって付き合いのあった先輩先生が亡くなった。
その先生は、とても変な先生で、個性的だった。僕の記憶を辿ると、僕が大学生の頃から面識があったので、10年くらいの付き合いになる。職場を共にしてからは、いろいろと怒られたり、注意されたりした。同じ学校出身ということもあって、とりわけ僕には色々厳しいことを言ってくれた先生だった。
「会議中に飲み物を飲むな!」
「最初はあんまりものを言わないで、先輩先生の言うことをしっかり聴け」
「講義中に帽子をかぶっている学生がいたら、しっかり注意しろ」
「早く学生気分を捨てろ。教師としての自覚を持て」
「発言には責任を持て」
・・・
書けばきりがない。とにかくいろんなことを言われた。時折、その言い方に腹を立てて、反発したこともあった。けれど、どこか(素直ではない)愛情みたいなものが感じられて、嫌いにはなれなかった先生だ。というか、その人のいいところが見えると、すごく素直でストレートな先生だなぁと思うようになり、好感すらもてる先生になっていた。
つい一ヶ月前まで、日々顔をつきあわせていた先生だっただけに、突然の死には驚いた。というより、唖然としてしまった。療養生活・闘病生活を送っていることは知っていたけど、まさかこんなに早くに亡くなってしまうとは。。。
僕も33年生きてきて、誰かの誕生や結婚と同じくらい誰かの死とかかわることが増えてきた。出会いだけでなく、別れをもしなければならない年齢に達したということかな。若い頃は出会いで溢れていた。日々出会いがあった。けれど、歳を重ねるごとに人の死と直面することが多くなってきた。これからは別れの方が増えてくるだろう。
人間は必ず死ぬ。頭で分かっていても、心でそれを実感することは日々の日常の中ではあまりない。身近な人の死によって、ふだん忘れている死という問題が表面に浮かび上がらされる。そして、その人のありがたみや存在の重さに気づかされる。生前には気づかなかったことに気づき、生前の複雑な思いがリセットされる。
近代技術の発達によって、僕ら人間は死からかなり遠いところに離れてしまったようにも思える。が、やはり死はわれわれの身近なところにある。ハイデッガーをもちだすまでもなく、われわれは死という本来的な事柄に直面して、本来の自分を取り戻す。自分も死すべき存在であり、死にゆく存在であることも思い出す。
僕らは有限の命を背負っている。限りあるのだ。終わりがある。生まれたときから終わりに向かって歩いているのだ。この現代社会にいると、とかく自分が無限であるかのような錯覚を抱いてしまうが、それはただの幻想に過ぎない。気づけば歳を取り、死の一歩手前まで進んでしまうのだ。根源的な時間は、客観的な時間とは別に、たんたんと死に向かって進んでいく。僕らはその根源的時間を忘れ、客観的時間に振り回される。生命の生き生きとした躍動感、ドクドクと流れる血液の音のような時間には、終わりがあり、その終わりを目指して、刻々と時間がきざまれていく。
もしかしたら、僕らが生きていることそれ自体が死に向かっていくための歩みなのかもしれない。今自分がこうして存在しているのも、やはり死に向かって存在しているのであり、終わりに向かって存在しているのだ。それを忘却し、完全に忘れ去ってしまうことで、人間は愚かになり、自分が万能な存在なのだと思い誤るのである。
先輩先生の死を通じて、また僕は死という最も固有な出来事について思い出すことができた。
忘却と記憶の再生・・・
今夜、お別れをしに行ってくる。僕は彼からもらった言葉をしっかり受け止めたい。そして、ご冥福をお祈りするとともに、人間の言語でもっとも普遍的な言葉を二つ告げてこよう。
けれど、また本来性を忘却したがんじがらめの客観的時間の中を生き、死を忘れ、勘違いをして生きていくのだろう。でも、それが人間の生というものなのかもしれない。悲しいけど、それが生きるということなのだろう。僕らは忘却せずして存在することはできないのだ。