Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「適用主義」と「管理教育」-僕ら団塊Jr.と今の若者との本質的な違いとは?

 

今年の現代思想の「教育」特集の巻では、教育と就職の問題が盛んに論じられていた。

その中で、出てきた言葉が「適用主義」という言葉だった。今の教育界は、社会の圧力を強く受けながら、子どもたちに「適用」するように強く要請している。それは、初等教育でも中等教育でもない。大学教育において、そういう「適用主義」が貫徹され始めている、というのだ。

時代は変わったと思う。

今の若者たちは、この「適用主義」に逆らうことができない。なぜならば、その適用主義は、教師たちの思想や考えに基づくものではなく、「社会」の要請だからである。あるいは、学校と社会をつなぐキャリア支援センターや就職課といった教師や教員ではない人間たちからの要請であるからだ。

「従いなさい」、これを、教師から言われるならば、逆らう余地がある(そこには、暗黙の「甘え」がまだ存在する)。だが、今の時代、先生がそういったところで、まともにそれに従う人間はいない(いや、実際は多いんだけど)。けれど、今は、社会が若者たちに、そうした圧力を(教師に言われる前に、空気として)かけられている。ゆえに、大人たちに逆らえない。一教師を敵にまわすことはできても、さすがに「社会」を敵にはまわせない。

僕らの時代は、「管理教育」という言葉が流行った。管理教育は、まだ「教師VS子ども」という共同幻想(対幻想)が皆に共有されていた。だから、教師に逆らっても、それで「社会」から抹殺されるとは思っていなかった。

尾崎豊は、その管理教育を強く批判し、自分たちの自由を叫んだ。みんなが、それに共鳴した。学校による支配に逆らい、強く生きていくことを願った。が、その尾崎自身、学校でではなく、社会の中で、追い詰められ、そして、海外に飛び、薬物に手を出し、亡くなってしまった。この例が、まさに今の過酷な若者の状況を映し出しているではないか。

今の若者は、学校と対決しようとはしない。学校がそれほど彼らにとって「抵抗勢力」とはなっていないからだ。いや、学校が社会と切り離された場所だと思っていないからかもしれない。今や、学校は、社会を構成する重要な要素の一部になっている。学校で成功することが、ますます社会の中での地位獲得にとって重要となってきている。

学校の教師とぶつかることを避け、できるだけそこで順応しようとする。あるいは、逆らうことなく、学校から消えていき、極めて過酷な世界に向かおうとする。従順か、逃走か。そのいずれかしか選択肢がないのである。僕らの時代には、「学校なんてクソだ。行かなくても、なんとかなる。学校も先生もクソだ。おれはおれの道を行く!」と言っても、そこに社会の受け皿がかろうじてあった。高卒であっても、仕事がまだそれなりにあったし、それなりの「選択」ができた。

けれど、かつての管理教育とは全く違う状況下にあるのが、今の学校、教育、若者のリアルの姿なのかもしれない。

それだけでない。さらに、「グローバル化」の流れを受けて、若者たちが戦うべき相手が、日本人だけに限られなくなってきた。今の大企業では、積極的に海外の優秀な若者たちを採用しようとする動きが活発化してきている。東大の秋入学もそれを射程にいれている。日本の若者は、その内部だけで戦うだけでなく、海外の優秀な若者とも競わなければならなくなっている。もう、逆らっている暇はない。どこまでも、順応しなければならないほどに、若者たちは追い詰められているとも言えなくもない。相手が社会というモンスターなだけに、もう、何も言えなくなる。

学校に反目する若者たちを受け止めてくれる場が実に少なくなった。いわゆる「中卒」や「高卒」で可能な仕事は、海外へと流出している。具体的にいえば、工場はどんどん日本国外に移転しており、そういう仕事に就こうと思っても、国内にはもはや存在せず、海外に行くしかない。僕の先輩は、「そういう仕事に就くために、海外に出ざるを得ない若者は今後増えてくる」、と話していた。

そんな中、学校も変わり始めている。

なんと、高校の中には、「学力が低いから大学に行かざるを得ない」という奇妙な現象も起こっているんだそうだ。高校で上位5名だけが、学校推薦ということで就職することができる。だが、6位以降の生徒は、学校推薦の就職場所が得られなくて、泣く泣く大学に行く、というのだ。

これは極端な例かもしれないが、今や、大学進学の理由は、「学問の探究のため」では99パーセントない。どう考えても、「職場がないから」という消極的な理由しかないように思うのだ。

大学や短大も、(社会の要請により)ますます「就職」に力を入れ始めている。1年の最初から、下手したら入学前から、キャリア教育を始めている。飽和する大学事情からすれば、「就職率」は極めて重要な要素となる。学費を出す親たちは、とにかく子どもに就職してもらいたいと願う。ゆえに、「顧客化した親」は、大学の中身の中でも、「就職率」を特に重視している。それは、高校も同じで、大学はとにかく就職率の向上に力を入れなければ、「淘汰」されることになるので、それに躍起になっている。

「ゆとり教育」という言葉がもはや懐かしいほどまでに、教育をめぐる議論はその果てに来ようとしている。今や、教育は、職業教育になり果て、若者たちにひたすら「適用主義」を教え込もうとしている。あいさつ、礼儀、マナー、身だしなみ、コミュニケーション、そういったことが強く重視されるようになってきている。大学でさえ、そんなことをしなければならない時代なのだ。

教師も、もう無力感でいっぱいになっている。「公務員バッシング」もあり、「国歌斉唱問題」もあり、さらには、教師の権威も見事に消滅し、方向も見えなくなってきている。「新自由主義」の風に、現場の教師たちはあまりにも無力だった、と上の現代思想では語られていた。

大学教員でさえ、「第三者評価」にがちがちに管理されているのだ。僕が憧れた「自由な校風」なんていうものは、ほとんどの大学・短大には存在していない。オープンキャンパス、生活指導、就職指導、その他もろもろの校務に忙殺され、研究に腰を据える時間はほとんどない。小中高の教員たちは、その比でないくらいに、忙殺されているのが現状だ。

まとめ

適用主義が若者たちに降り注いでいるが、その一方で学校はもはや社会=国家からがんじがらめに管理されている。適用と管理、もうこの外には出られないくらいに、教育界は縮こまっている。やや極端にこれを書いているが、決して、大それたことを書いているとは思えない。それくらい、世の中が、適用と管理を求めているのだ。

子どもには適用を、教師には管理を、そんな中で、豊かな学びが保障されると言えるだろうか。

今の時代、尾崎豊は登場しない。彼みたいな存在が出てこないのが、今のリアルの世界なんだと思う。

このブログでは常々主張しているが、若者に考えさせる時間を与えるべきだと思う。安易なアルバイトを廃止し、「第一キャリア」としての雇用を増やしてほしい。「正規雇用」に、二種用意して、社会保障を整えた職場をもっと増やしてほしい。そして、「泣く泣く大学に進学する」という若者たちに、社会を経験させてあげてほしい。それと同時に、若者が勉強したいと思ったときの教育的受け皿を充実させてもらいたい(というか、そういう方向に、多くの大学がシフトしてもらいたい。そう、「コミュニティーカレッジ」のように)。

まず、一度、なんとなく働いてみる、というのも悪くはない。中卒・高卒の若者に労働機会をもっともっと与えられる社会づくりがまずは欠かせないと思う。18歳を過ぎて、そのまま大学進学というのは、なんとも窮屈過ぎる。世界では、徴兵制があって、一度クッションが置かれるけど、日本にはそういうクッションがない(とはいえ、徴兵制がないことはいいこと:反戦☆)。

それを可能にするためにも、やはり「高大接続テスト」の導入が必要不可欠となってくる。「高卒資格」の重さをもっともっとみんなで共有したいところだ。だいたい、高校の授業内容って、かなり難易度高いですぞ☆

***

数年前までは、「教育格差」が話題になっていたが、このところは、教育と就職が「現代教育思想」となっている。この点は、注意して考えていきたい。

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