メモ程度に。
赤ちゃんポストのねらいは、「アウシュヴィッツ以後の教育学」の実践そのものにある。
アウシュヴィッツ以後の教育とは、二度とアウシュヴィッツ(的なもの)を繰り返さないということに尽きる。
このアイデアは、アドルノの思想に帰着する。
アドルノは言う。
アウシュヴィッツの原理に立ち向かう唯一にして真の力は、自律(Autonomie)である、と。
そして、その自律とは、
①反省する力
②自己規定する力(自分で決める力)
③同調しない力
である。
(『アウシュヴィッツ以後の教育』より)
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/09412300/
僕は、これらの教育をきちんとできているのか。
もしかしたら、全くできていないかもしれない。
というか、その逆をしてしまっていないか?!
反省しない人間を作っていないか。他人による規定を期待する学生にしてしまってはいないか。そして、同調しようとする人間にしようとしていないか。
自分のこととして考えると、とたんに不安になる。
うちの学生たちを見ていると、本当に、そうなんじゃないかと思えて、不安になる。
自律に向かっていない教育。
それは、やがて、またあの悲劇(アウシュヴィッツ=大量殺戮=悲劇)を繰り返す元凶となり得る。
反省ではなく、盲従を強いてはいないか?
自己規定ではなく、他有化、他者規定に従うことを強いてはいないか?
同調しないことではなく、強烈に同調することを強いてはいないか?
僕、というより、今の社会は子どもたちにそういう強制をますます課しているように思えてならない。
もし、僕(あるいは僕ら)がこうしたことを封じ、自律へと向かう教育ができないならば、自律しない人間が教師や保育士となり、そうした彼ら・彼女らが、子どもたちに自律とは真逆の方向の教育を施すことになるだろう。
一番最初の教育、あるいは保育が、自律に向かわないものであったら、アウシュヴィッツを生んだその元凶を防ぐことはできない。
特に、今の保育士教育・教師教育は、完全なる服従と隷属と同調によって強く規定されている。それでいいのか?と僕は強く思う。
ゆえに、僕はなんとしても、こうした状況の中で、自律に向かう教育を保持したいと思う。
そうでなければ、ますます被支配的な空気が強まり、恐ろしい結末を作り出すことになってしまうだろう。
そういう危機感がますます強まってきている。
自分のことは自分で決める、自分の未来は自分で切り開く、自分が正しいと思った道をしっかり歩む、そういう人間を作らなければ、本当に恐ろしいことになってしまうと改めて感じている。
今のままじゃ、かなり、本当にかなり、危険だと思うのは、僕だけだろうか。
…
自立と自律
http://allabout.co.jp/gm/gc/296311/2/
http://www.insightnow.jp/article/20