Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「支援」と「暴力」の狭間で-しつけと体罰の曖昧さについても…

先日、千葉県内の障害者施設で、19歳の利用者の子が亡くなる、という事件が起こりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131213/k10013798511000.html 
http://mainichi.jp/select/news/20131213k0000m040096000c.html 

「あってはならない事件」ではありますが、障害児・者と長年かかわり続けている人たちからすれば、とても複雑な思いを抱くであろう事件でした。

この事件については、色々とあって何も語らずに沈黙しようと思いました。が、一つ、気になることがあるので、そのことだけ述べたいと思います。

***

一連の報道を、そのそれだけを聞けば、「支援員はいったい何をやっているんだ!」、「その男性職員を断罪せよ!」と思う人は多いと思います。各報道番組や新聞を読むと、「5人の男性職員」が、「暴行」をいわば「日常的」に行っていた、と書かれています。それだけを読めば、「なんてひどい支援員たちなんだ!」と思うと思います。

けれど、ちょっと待っていただきたいのです。「知的障害児・者」との日々のかかわりや支援が実際にどういうものなのか、どれほど彼らへの支援が大変なのか、日々どのようなトラブルがあり、どのような危険性があるのか、それをきちんと理解した上で、この事件の善悪を問うてほしいのです。彼らの日々の生活を知らない人は、できるだけ、その善悪の判断を控えてほしいのです。

もちろん、「暴行」や「暴力」は、何があっても許されるわけではありません。僕は、「死刑」も、国家による暴力だと思っている人間なので、あらゆる暴力に反対すべきと考えますが、今回のこの事件が、「暴力行為」だったと、どこでどう判断するのか、したのか。そのことを知らないで、断罪してはならない、と思うのです。

このことを問いにすれば、「支援」と「暴力」の境界線はどこで、誰が、どう引くのか、と。

おそらく、外部の人間(とりわけ、彼らの日々の生活支援を知らない人)からすれば、支援員の身体的な利用者への働きかけの中には、「暴力」と思ってしまいそうなものもあります。しかし、彼らの支援においては、緊急に身体的に接触して、押さえつけなければ、他の利用者や、あるいは支援員自身の身の危険から守ることができない、という事態も日々起こり得るわけです。僕も、かつてはそれなりに怖い経験もしました。また、重度の知的障害をもった方が(電車の迫る)線路につっこんで行きそうになり、今思えばとんでもない方法で止めたりもしました。

手首を噛み付かれ、食いちぎられそうになる経験、パニックになって自分にその怒りを100%の力で迫ってくる経験、100kg以上の体で飛びかかられるような経験、髪の毛をひきちぎられる経験、首をしめられる経験、頭突きされる経験… そういう経験は、施設関係者であれば、誰でもとはいいませんが、ほぼ皆、あると思います。そういう経験をしている人であれば、今回のこの事件については、もう黙るしかないわけです。

ここで言いたいのは、「支援」と「暴力」は極めて紙一重であり、「してはいけない」けれど、「止めなければならない」わけでもあるのです。「やめなさい」で聞くわけでもない。しかも、どう止めればいいのかも、誰にも分からない。かといって、考えている時間もない。まさに「待ったなし」の状況なのです。そういう状況下に置かれて、傍観すれば、それは支援員として失格ですよね? かといって、理性的な言葉で諭すこともできない。とくに相手がパニック状態であれば、なおさらです。

この問題は日本国内の問題にとどまりません。僕はドイツの障害者施設に何度も行っていますが、そこでもやはり過酷な利用者による攻撃にどう対応するかが問題となっていました。泣き叫びながら家中のものをひっくりかえす大きな男性利用者に対して、大声を上げて、全力で立ち向かう女性支援員の姿を見たときは、本当に心が苦しくなりました。(最後には、その女性支援員が男性利用者を押し倒して、なんとかおさまりました)

けれど、知的障害をもつ子・大人が「悪い」からでもありません。彼らも彼らなりに必死に、それこそ全力で、自分の不快や不満を表現しているのです。僕らが日々言葉を使ってそれを表現していますが、その言語表現という点で、彼らはその武器をうまく使えないのです。だから、「悪意」も「殺意」もないのです。けれど、それを「容認」し、「受け入れる」こともまたできないのです。

利用者の人たちも、好きでそこにいるわけではありません。そこしかいるところがないから、いるのです。日々、ストレスを感じている人もいます。昔、とある障害をもった人に、泣きながら、「私だって、ここにいたいわけじゃない。keiさん、お願いだから、ここから出して!」、と言われたことがあります。彼女は身体障害でしたが、ゆえに、施設内での生活の辛さを教えてもらえました。知的障害の人たちは、それすら言うことができないわけです。

施設の職員さんも、日々、本当に苦労をされながら、そんな彼らの支援にあたっています。一人で何人もの利用者を担当することもあります。一対一でも難しい対応を、一手に引き受けるわけです。しかも、医者や教師と違って、24時間ずっとです。時として、色んなことが起こります。その対応も、個々一人ひとり違うわけで、また相性もあります。合う、合わないというのもあります。利用者への支援は、答えがなく、常に緊張感のあるもので、どんな人間であっても、たじろぐと思います。目を離せば、どこにいくか分かりません。千葉で施設を逃げ出した利用者が、静岡県で発見された、というケースもあるほどです。千葉から歩いて静岡に行ったそうです。

つまり、何が言いたいかというと、利用者と支援者とは、全く非対称の世界を生きている、ということなのです。お互いに合い入れない、といいますか。立場が違えば、何もかもが違う、といいますか。どちらかの一方が正しくて、他方が悪い、ということはない、ということです。もちろん、今回の事件で、実際のところどうだったのかは分かりません。今、発表されている情報だけで、どちらが悪いとは全く言えない、というのが僕の見解です。

いきすぎた支援は、「暴行」となりますし、またひかえめな暴行が、「支援」だったりするわけです。単純に、「暴行があった」と言えるのかどうか。今回の事件で実際にどうだったのかについては、「分かりません」。ただ、障害者の世界では、「支援」と「暴力」は紙一重だ、ということは確かだと思います。

これは、「しつけ」と「体罰」の論争に通じます。親からすれば、「しつけ」であることが、他人から見たら、「体罰」である、ということは多々あります。「虐待」においても、親は「しつけだった」というケースも多々あります。世間では、しつけをしない親を罵倒します。「ちゃんとしつけくらいしろよ」、と。けれど、そのしつけを厳しくしていると、「虐待なのでは?」、と言われるようになります。教師であっても同様です。熱心な先生が指導ということで、厳しい言葉を子どもに浴びせれば、「心理的体罰」として、断罪されます。体育会系では、指導と言う名の体罰(=暴行)が長い間、行われ続けてきました。

支援と暴力が紙一重である、ということは、そのまま、しつけや指導と体罰が紙一重であることと重なります。

今の時代であれば、暴力や体罰は絶対に認められません。がしかし、現場で働いておられる方たちにしてみれば、日々色々なことがある中で、どうしても力で抑え込まなければならないこともあるわけです。激しいいじめや闘争が学校や施設で起こっていれば、それはすぐに阻止しなければなりません。その「阻止」の仕方が、とにかく難しいわけです。「やめろ!」と言って、その指示にしたがってくれるなら、そんなに楽なことはありません。

ゆえに、支援者側の力量が問われるわけです。「止めろ!」と言っても言うことを聞かない利用者や子どもたちに対して、どのようにして、かかわりゆくか。瞬時に、何をどうしたら、安全に、そして適切に対応できるのか。そんなこと、どこにも書いてませんし、また書きようもありません。

一つだけ、僕から言えることは、「障害者福祉に従事する人こそ、教育学を勉強してみてはどうだろうか」、ということです。

教育学の伝統的な概念に、「旧教育」と「新教育」という二つの言葉があります。ここでそれを説明しませんが、障害者福祉に携わっている人の多くが、「教育学」とは別の学問を学んでいると思います。教育学では、それこそルネッサンス期頃から、「子どもを強制する教育をやめろ」、「子どもへの鞭と体罰をやめろ」、「子どもに上から教え込むのをやめろ」、という古典的な教育方法(体罰を含む訓練や調教)への激しい批判が繰り返されてきました。

そういう古典的な教育(=旧教育)に変わって、子どもへの強制や強要や訓練や体罰を完全に使わない新しい教育方法が模索されました。「子どもをコントロールすること」をやめて、「子どもが自ら育つのを支援する」、「子どもの自らの学びを支える」ということを行おう、と。それを、「新教育運動」と呼んだりもします。

施設の職員さんたちが日々、本当に頑張っておられることは承知の上での僕の意見です。「どうして彼らは暴れたり、自傷行為をしたり、パニックになったりするのか」。そこには、彼らなりの「メッセージ」があると思います。それは、子どもへの教育も同様です。それを、力で押さえ込むのではなく、どうしてそういうことをしてしまうのかを理解して、そうならないように支援する、その方法を考える。もちろん日々、そういうことを考えている人もたくさんいます。けれど、多くの人は、「社会福祉学」「児童福祉学」「介護福祉」等を勉強してきたか、あるいは全く別の勉強をしてきたと思います。

もちろん教育学を勉強したからといって、障害者支援の方法ががらりと変わるわけではありません。けれど、「力で抑制しても、ダメなんだ」、と知ることは必要だと思います。「どうしたら、彼らに一番ふさわしい仕方で、支援することができるのか=暴れたり、パニックになったりした時に、力を使わずに、どうやって落ち着かせることができるのか」、それを、個々の支援者が自分で考え、試して、そして、その方策を吟味する、そういう知的な反省をすることが、やはり求められると思います(それは、教育も同じことです)。

暴力で暴力を封じることはできません。暴力は連鎖します。暴力に対抗するためにこそ、知恵を得ることが必要だと思います。知恵を得るだけでなく、知恵を作り出していく。そして、その知恵をみんなで共有していく。そういう(プロらしい)取り組みが求められるのだと思います(僕がやっている第四土曜日の会はまさにそういう会だと思っています)。

今回の問題に、「安易な解答」はないと思います。だからこそ、今回の事件から、僕らはもっと考えなければならない、と思いました。きっと、今回問題となった男性支援員の方々も、最初は素朴に「障害者のために働きたい」と思ったと思うんです(そう信じています)。「彼らの力になりたい」とも思ったと思います。そういう思いで、職員になったんだと思います。が、現実の彼らに直面したとき、どうすることもできないことを痛感したんだと思います。「ノーマライゼーション」という言葉がぶっとぶくらいに、色んな障壁にぶつかったんだと思います。けれど、「じゃ、どうするんだ?」というある種の教育学的問いについては、学んできていないのです。そうすると、「とにかく押さえなければ、止めなければ」、となります。その繰り返しの中で、「支援」に、暴力性が徐々に帯びていくことになります。そして、それが「正当化」されていきます。このことは、教育学がかつてからずっと直面してきたことでした。

ゆえに、僕の中では、やはり、「福祉だけを学ぶ専門家ではなく、福祉と教育を共に学ぶ専門家が必要なんだ」、と思うのです。いいえ、そういうことではなく、実践を振り返る事例研究や、そういう研究を行う研究会が必要なんだ、と思いました。教育や保育においても、かつてからつねに、「反省する実践者養成」が問題となっています。この議論は、そのまま障害者福祉=障害者支援においても通用すると思います。

この問題は今後も考えていきたいと思います。

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