内と外。
日本人はどっちを大切にしているのだろう?
内は、プライベートの領域。家族関係だったり、個人的な友だちだったり、休日だったりする。
外は、いわゆるオフィシャルな領域。仕事だったり、学校だったり、地域だったり、世間だったりする。
内は私的な領域、外は公的領域と言ってもいいかもしれないが、外と公は根本的には異なる概念と考えておきたい(公という言葉には公共性という言葉もあり、外という概念を越える概念と考えておきたい)
多分、ドイツ人(や他の外国人)だったら、そのほとんどの人が疑問を抱くことなく、内を大切にすると言うだろう。仕事を自分の人生の最優先課題にする人はそれほど多くはないと思う。仕事を犠牲にして家族サービスをすることはあっても、家族を犠牲にして仕事に没頭する、という発想を理解することは彼らには難しいと思う。
だが、逆に日本人は、内を犠牲にして外を大切にすることを美徳とする。外でのストレスを内でぶちまける、っていうのは、日本人であればそれほど奇異なことではないはずだ。日曜日にまで仕事の関係者とゴルフに行くというのは決して珍しいことではない。本来、家庭で過ごすべき時間に仕事をすることも決して奇妙なことではないのだ。家庭や家族を大切にし、仕事を犠牲にしている日本人はいるのだろうか。またそうしたことを(本気で)推奨する企業や団体はどれほどあるのだろうか。(3週間以上の長期休暇を認めている企業とかって日本ではたして存在するのだろうか) こうしたことは、「滅私奉公」という言葉からもうかがい知ることができる。
事態はもっと深刻だ。仕事がうまくいかないから(仕事を失ったから)、自ら命を落とすことや、自分の家族をめちゃめちゃにしてしまうという現象もある。学校でのいじめで自ら命を絶つ子どもも少なからずいる。(元不登校の僕的にいわせれば、学校なんて行かなくたって、生きていくことはできる。でも、日本の子どもにとって学校での(友人との)人間関係は家庭やプライベートな人間関係以上の意味があるのである) つまり、外のことが原因で、内をめちゃめちゃにしてしまうのだ。逆に、内のことで外をめちゃめちゃにする人っていうのは聴いたことがない。(例えば家庭内の問題が原因となって、会社の人間を殺める、とか。海外にはそういう事件もなくはない)
もちろん仕事を失えば、厳しい状況下におかれるし、生活そのものの基盤を失うことになるから、決して軽視すべき事柄ではない。仕事を失うことは社会の中で生きていくことの危機につながる。学校内での不和や衝突はたしかに苦しいことだし、深刻な事態であることには変わりない。外の世界はたしかに人間の存在証明になっている。外の世界を失うことは、本当に辛いことである。
しかし、それでも生きていくことはできる。この飽食の時代、餓死することは滅多なことがないかぎり起こらない。失業しても、再就職する道は(かつてよりもはるかに)拓けている。再就職の道が断たれていたとしても、日本は生活保障制度をしっかりと築いている。最低限度の生活の保障は憲法でしっかりと明記されているのだ。それでも、命を落とす人や家族を壊す人は後をたたない。(心中事件も少なからず常に生じている) いったいどうしてなのだろうか。
その背景にあるものは、「内の軽視(空洞化)」と「外の絶対化」ではないだろうか。僕ら日本人は、外を重んじる。というか、外こそがすべてなのである。ホンネとタテマエだったら、タテマエを重視する。いや、実は日本人はホンネそのものがタテマエに吸収されてしまっているのではないか。ここでホンネは内、タテマエは外、ということになる。
タテマエは、義理にもなるし、人情にもなる。タテマエは、日本人が絶対に犯してはならない絶対領域なのかもしれない。若者の間で流行っている「KY」も同じカラクリだ。KYのKは「空気」だ。空気とは周りの人間の何らかの思考・感覚を言う。空気を読むというのは、世間を読む、タテマエを読む、外を読む、ということに他ならない。これを怠れば、日本社会では排除させられ、避けられ、生きていくことが非常に困難になる。「出る杭は打たれる」という言葉も、こうした事態を指している。
さらに言えば、ホンネや心情そのものも、実はタテマエや義理と全然バッティングしていない。実はホンネ=タテマエになっているのだ。だから、タテマエで、自らの命をも絶つことができるし、タテマエが引き金となって、自己や他人を殺めることもできるのだ(本来、殺人は人間の衝動や怨恨によって生じるものである!)。「世間様に顔が立たない」という言葉もあるが、まさに日本人は世間様の心情に身も心も委ねているのである(日本世間学会なんてものもあるみたい)。義理を捨てて、自分のホンネで行動することは、われわれにはとても難しいことなのである。いや、ホンネそのものが最初からないことが問題なのかもしれない。
「Noといえない日本」という言葉もかつて流行した。人が集まる場で、その場の雰囲気、空気、集団心理に逆らうことは決して許されない。というか、自らがそれを否認するだけの思考をもっていないのだろう。だから、「Noがない日本」の方が正しいのだ。
「新人類世代」(今の40~45歳くらい?!)以降、かつてほど「外」を重んじることはなくなってきたかもしれない。けれど、まだ「外」を最重要視する姿勢は崩壊していない。今の若者たちを見ていると、ますます小さな同年齢集団の「外の空気」に敏感になってきているようにも見える。KYという言葉だって若者の言葉だ。
でも、本当にこの先、これまでのように「外重視」の姿勢を貫いていいものなのかどうか。外を重視するということは、同時に内の軽視につながることになる。家族は最も貴くて、かけがえのないものなのに、仕事によって根こそぎ侵食されてしまっているように見えて仕方ない。そもそも家族(内)重視という発想それ自体が日本人にはなじみのない考え方なのかもしれない。
僕はプライベートを絶対的に重視する。プライベートの時間のために僕は生きている、と断言したい。もちろん仕事は大切だし、楽しいし、やりがいも充実感もある。外を軽視することはしない。
けれど、それは、あくまでも内のためにすることであって、外のために仕事をするわけではない。外のために外を生きるのではない。仕事をしていればタテマエで動かなければならないことが山ほどある。でも、そのタテマエもあくまでもホンネのためにあるのである、というか、そのためでしかない。ホンネ(旅行をしたい、ラーメンを食べたい、音楽をもっと聴きたい、ブログをもっと充実させたいetc)をもっと豊かにするために、外を生きるのである。外はカリソメ、外は義務、外は義理、外は仮の姿、そういうものなのだ。
(欧州のスーパーマーケットを見よ! 座ってレジを打ち、無愛想で、黙々と義務であるレジ打ちに徹している。「売ってあげてんのよ」とでも言いたそうな表情。お客さんを神様として見ないいさぎよさ。もちろん真面目にやってはいるが、心まで仕事に奪われていない内の強さ)
そしてもっともっと休日を大切にしたい。休日こそ、われわれの本来のあるべき姿を実現させてくれるパワーの源なのだ。われわれは休日のために働いているのだ。休日に笑うために生きているのだ。仕事で苦しみ、仕事に追われ、仕事と心中するために生きているわけではないはずだ。(もちろん仕事に苦しむことそれ自体は決して否定されるべきことではない!!) 早く日本にも「ウアラウブ(一ヶ月ほどの長期休暇)」が導入されんことを祈念する。誰もが一年に一度一ヶ月ほどの休みをもてる社会になってもらいたい。
内があって初めて外があるのだ。内が崩壊すれば、外の出来事までもが強い打撃を受けるだろう。でも、それでいいのだ。外の崩壊によって内が壊されるよりはずっとずっとマシなはずだし、内がしっかりしていれば、外が多少変動してもぶれることはないのだから。これからの僕らは、もっともっとプライベートである内を充実させるために生きていっていいのではないだろうか。生き生きと必死に働くことをやめて、生き生きと休日を生きる人間になってもいいのではないだろうか。
休日の終わりに。