現在、東北、北関東への救済活動が、公私問わず、活発に行われています。それ自体については、何も言うことはありません。この大震災については、まだ語れる時期ではないし、何を言っても、何を書いても、真実っぽさが欠如するし、黙るしかないと思っています。ただただ、全ての復旧を祈るばかりです。
ただ、それとは別に、すごく気になることがあります。
大震災への国内の反響・反応はすごいです。あらゆるところで、義捐金集めが行われ、あらゆるところで、「自粛」という言葉が溢れかえり、多くの人たちが、「何か自分にできることがあれば」と考え、悩み、行動しようとしています。これ自体は、とても素晴らしいことであるし、特に気になるところではありません。
世界の世論でも、「日本人は素晴らしい」という声が聞こえてきます。たしかに、この一連の日本人の動きを見ていると、すごく「よい国民」であるように思えてきます。「弱者」に優しく、そして、「被災者」に非常に温かいように思います。「日本はチーム」「日本を一つに」、そういった言葉もたくさん聞かれます。
けれど、その一方で、次のような事件も起こっています。
大阪市城東区で田中雫(しずく)ちゃん(3)がごみ袋に入れられて窒息死した事件で、母親の田中有維(ゆい)容疑者(26)=殺人容疑で逮捕=が今年2月下旬に無職の杉山裕幸容疑者(20)=同=と同居を始めて以降、しつけと称し、雫ちゃんを度々、風呂場に閉じ込めていたことが捜査関係者への取材でわかった。田中容疑者は「風呂場では態度が改まらず、ごみ袋を使った」と供述している。大阪府警は行為がエスカレートした可能性もあるとみている。
捜査関係者によると、田中容疑者は昨年末、出会い系サイトで千葉県出身の杉山容疑者と知り合い、今年2月下旬から、田中容疑者のマンションで同居を始めた。同居後、田中容疑者は、雫ちゃんがゲーム機をごみ箱に入れたり、はしゃぐことに腹を立てるようになったとみられ、「雫が言うことを聞かない時に、何回か風呂場に閉じ込めた」と話している。雫ちゃんは先月30日夕、ごみ袋に入れられて窒息死した。…
このブログでは、こういう児童殺害のニュースをできる限り載せています。日本では、こうした児童殺害事件を、「虐待」という枠で捉え、「事件」として扱い、そして、忘却されていきます。虐待した母親や父親は、「殺人者」として見なされ、そして、彼らはメディアなどで激しくバッシングされ、そして、話題の外に消えていきます。
でも、上の田中有維容疑者も、同じ日本人であり、そして苦しんでいた人ではなかったのか。誰も愛する我が子を殺したくて殺すわけではない(少なくとも僕はそう信じています)。ずっと耐えてきて、ずっと苦しんできて、その結果、「殺害」という形で、その忍耐や苦しみから解放されるのです。
これは、僕の「赤ちゃんポストはなぜ日本で広まらなかったのか」という問いとも直結します。
日本人は、一方で、非常に他人に優しく、親切であり、義捐金にしろ、支援にせよ、惜しみなくやろうとします。そして、現にやっています。ボランティアで被災地に向かう人もたくさんいます。困った人たちに惜しみなく手をさしのべようとする優しい心をもっています。
けれど、その一方で、子育てに苦しみ、貧困に苦しみ、孤独に苦しんでいる人たちに対しては、非常に冷たいのです。支援が必要な人は、被災者でなくても、たくさんいます。もちろん被災者の方々の悲しみや苦しみは想像さえできないものであります。が、日本では、毎年3万人以上の人が自殺でこの世を去っているのです。さらには、上に挙げたような悲しい「児童殺害」が頻繁に起こっています。困っている母子家庭や、かなり緊急下の状況にある女性もたくさんいます。
そうした厳しい状況下の人々に対しては、日本人は他人任せ、といいますか、国任せといいますか、自発的な支援活動が起こらないのです。赤ちゃんポストもしかりです。もちろん、ホームレス支援や自殺撲滅の活動を自主的に行なっている人はたくさんいますし、NPOや民間団体も数多く存在します。
でも、上のような児童殺害に対しては、皆、静観してしまうのです。雫ちゃんを殺害したのは、紛れもない実の母親です。殺害する前に、母親を支援することはできなかったのでしょうか。追いつめられた女性を保護したり、サポートしたり、支援したりする人はいなかったのでしょうか? 「子育て支援サービス」という言葉がありますが、そういった行政的なサービスでなく、身近な人からの支援はなかったのしょうか。
母親による児童殺害という問題は、緊急下の女性(Frauen in Not)の問題です。なぜこの問題に、同じ女性が声を上げないのでしょうか。
一つには、「虐待」という概念によって、「支援されるべき女性」が、「犯罪者女性」にすり替えられてしまっている、ということがあると思います。「虐待」という言葉が、「緊急下の女性」という問題を隠蔽しているのです。母親が虐待という道を歩む前に、その母親を救うことはできないのでしょうか。そうした問いを隠蔽してしまうのが、「虐待」という概念だと思います。
もう一つには、「女性間格差」と、それによる「女性間の断絶」というのがあると思うのです。虐待によって子を殺めてしまう女性(緊急下の女性)に対して、肝心の女性たちが蔑視し、自分とは関係のない存在と見なしているのではないでしょうか。女性の間にある格差の問題は、まだそれほど議論されてはいませんが、見過ごせない問題だと思うのです。もちろんその背景に、男性が潜んでいることも無視はできません。いずれにしても、殺害者となった女性への「救済」の視点はいっこうに生まれてきません。
話を戻します。
今、多くの日本人(あるいは日本に住んでいるあらゆる人々)が、被災地の支援や義捐金を積極的に自主的に行なっています。その点で、ものすごく親切で、温かくて、優しい人たちだと思います。TVを見ても、ものすごい温情的なコマーシャルや言説が飛び交っています。
が、その一方で、身近に、緊急下の女性はたくさんいますが、そういう人たちへの具体的な支援への関心は薄く、非常に冷たく、極めて他人事となっています。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
先日、某フォーラムで、とある人(外国の人)が言っていました。「日本人はみな、とても優しく、親切です。ですが、いざとなると日本人は非常によそよそしく、冷たい」、と。普段は優しいけれど、いざというとき、日本人は極めて冷たい、と。
この大震災における温情には、「みんなが苦しんでいるから」という論理が働いているように思うのです。みんなが苦しんでいれば、みんなが動いてくれます。けれど、個別の誰かが、それも個別の女性が苦しんでいることには、無頓着であり、冷たくなってしまうのです。散々苦しんだ末の虐待であり児童虐待なのに、「殺害者」として見なして、さらっと流してしまうのです。もっといえば、何万という被災者たちのことになると、「何かしなきゃ」と思うのに、身近で起こっている事件や事故になると、無関心になってしまうのです。どうしてでしょう? 変だと思いませんか?
義捐金活動が悪いとはいいません。そうではなくて、これほどまでに他人に優しいはずの日本の人々が、なぜ我が子を殺すほどまでに苦しんでいる女性一人を救えないんでしょうか。自殺やホームレスの問題もしかりです。それが不思議で仕方ないのです。
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≪問題≫
SMAPのCMで「みんなでがんばろう」というセリフがあるけど、これって、「みんなならがんばろう」となるんじゃないだろうか?
→「みんな意識」が、日本人の根源的な在り方だとするなら、これを批判することは不可能となる。あるいは、その「みんな意識」自体が意図的に構成されたものだとするならば、それはいったいどこでどう構成されるのか(でっち上げられるのか?) それに加担しているのが学校という空間だとすると… 学校は「対話空間」ではなく、「同調空間」ということになる(というか、なってしまってる?!)。
日本でなぜ有給休暇が消費されないのか、なぜ長期休暇を個別に取れないのかも、この論理で説明することができるかもしれない。
→「みんな」という意識・感覚:日本人の行動の前提条件は、「みんながやっている」ということだとすると、みんながしていなければ、わざわざ個別に自分が何かをすることはない、という論理になる。みんながしてなければ、スルーなのである。あるいは、みんながやっているからこそ、動こうとするのである。GWにしかり、お盆にしかり、年末にしかり、祝日にしかり、みんなが休むからこそ休めるのであって、個別に取ることは、「みんな」の手前、申し訳なく感じ、控えてしまうのである。日本においては、「個別の生の充実」(一人ひとりのクオリティーオブライフ)を保障するためには、この「みんな」という意識・感覚をリセットする必要があるのではないか。いや、もうそもそもこの「みんな」という意識・感覚は崩壊しているのに、無理やりメディアや学者や社会や世間が(何らかの意図のために)煽って、「みんな」という意識・感覚を無理やり作っているのではないか。
→地方と首都圏の問題:この国の地方を盛り上げるためには、そして安定した財政基盤を作るためには、地方のご当地らしさ・名産・名物をアピールするだけではダメ。それだけじゃなくて、それと同時に、「常にコンスタントに旅人・旅行者が地方に来る」という条件が整わなければならない。年始、GW、お盆、年末、連休だけに旅行者が集まるというのはどう考えてもおかしいし、不自然だし、第一、不便である。ホテルの値段は高くなるし、道路は混むし、電車の予約はできないし、美しい観光地が人で溢れ、落ち着かない。当然、地方もその時期に必死に稼がなければならなくなる。もし皆が個別に長期休暇が取れるようになれば、一年中、誰かがどこかに「移動する」ことが可能となる。
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