2011年5月の第四土曜日の会、終わりました。
今回は、新しい学生たちも交えての3時間討論でした。
今回の発表は二つ。
一つは、二歳児のある女の子の悪戯、挑発?、攻撃性とどう向き合うか、という話。
あられちゃん(仮名)は、とにかく友達が遊んでいるものが気になって仕方ない。だから、その遊んでいるものを友達から奪ってしまう。奪うだけならまだしも、それに加え、その友達に噛みついたり、引っかいたりしてしまう。子どもが怪我すれば、保育者は、被害者?の子の親に、そのことを伝え、謝罪しなければならない。いや、そういうことじゃなくて、子どもの安全を考えると、あられちゃんの暴走はなんとか止めなければならない。
言葉で注意をして、やめてくれればいいが、まだそんな年でもない。どうしたらよいのか、保育者は途方に暮れてしまう。そして、怒りがたまり、つい怒ってしまう。そして、無理やり?「ごめんなさい」を言わせ、そして、事態の収拾を図る。
もう一つの発表も、似た感じだった。今度は1歳児。こちらも、また、暴走・攻撃がとまらない。神聖なるかまってちゃんで、かまってもらうためにか、悪事を働くのだ。1歳児ならば、みな誰もがかまってちゃんなわけだが、こちらも、また保育者を困らせるほどの困ったちゃんなのだ。保育者だけじゃない。同じクラスの子どもをも困らせるのだ。
どちらの発表も、「子どもを怒ることがいいことなのか」という議論へと発展していった。
「時と場合には、怒ることも多々ある」という意見が多かった。こういう議論だと、「どういうふうに怒るべきか」という議論に発展しがちだが、それは敢えてとめて、「そもそも、保育者は怒るべきなのかどうか」、「子どもにとって怒ることはそもそも必要なことなのか」ということを問うた。
また、悪戯や挑発や攻撃はいったい何を意味しているのか、ということも語り合った。基本的には、「甘え」という概念で説明できそうだが、そんな単純に考えていいのかどうか。
「子どもたちは、わざと悪いことをして、甘えている」、という考え方は、現場によく浸透しているように思われる。けれど、その背後には、「愛されたい」「かまわれたい」という気持ちがあるのではないか。
愛されたいという感情が満たされてからこそ、甘えたいという感情が芽生えるのであって、その逆ではない、といった議論もあった。
さらには、感情にまかせて怒ることと、理路整然とした仕方で怒るのとでは、どっちがよいのか。よくないのか。どういう人間形成になり得るのか、、、
いろいろととりとめもなく議論しました。
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この研究会も、4,5年、続いているんですよねー。一年間、わたくしは休業したけど、卒業生たちが頑張って続けてくれていました。
最初は、「実践を研究する!」という目的でやってきましたが、最近は、ちょっと僕の見方が変わってきました。「実践をひたすら議論する」という目的が新たに出てきました。「実践を対話する」と言ってもいいかもしれない。論文を書くため、とか、本を出すため、とか、そういう目的ではなくて、「議論する」「対話する」というのが、この研究会の目的なのかな、と。
議論は、混沌であり、他者とのぶつかり合いであり、葛藤であり、どうなるか先が読めない。色んな意見が飛び交えば、議論はさらに混沌とする。答えを出すのが目的ではなく、「別の見方」を発見するのが目的である。
きっと、「無意味だ」と思う人には、無意味なんだと思う。それでいいと思う。でも、議論は、民主主義的やり取りの原則であり、一人ひとりが主体となって、色々と考えることができるチャンスである。
実践を議論する。実践を対話する。これこそ、第三土曜日の会が目ざす次のステージのような気がしてならない。
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来月は、6月25日(土)、15時30分からです。
よろしく☆