Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

新海誠【すずめの戸締まり】を教育学的な視点で語ってみる-「ダイジン」の教師論-

先日、今話題になっている、

すずめの戸締まり

という映画を見てきました。

新海誠さんの最新作とあって、日本中で話題になっていますね。

この映画についてのコメントや感想や解説も続々と出てきています。

それに便乗するわけではないですが、一つ書きたいなって思うことがあったので書いてみます。

映画「すずめの戸締まり」の僕の感想&解説&解釈です。

なお、ネタバレになる恐れもあるので、それでもいいよっていう人だけ以下の文を読んでください。

ただ、そこまで映画の細部について論じることはないですが…

でも、こんな時代ですからね。一応書いておきます。

この映画を見て、「書きたい!」と思ったきっかけをくれたのが、

この映画で重要な存在となっている白猫の「ダイジン」。

このダイジンを見て、「ああ、このダイジンこそ、今失われている教育を表わしている」って思ったんです。

映画解説を見ると、このダイジンについて語っている動画や記事がいっぱいあります。

その多くが、「守護神」「鈴芽の守り神」「神様」として捉えられています。

映画の中でも、そういう感じで書かれているので、そう解釈するのが妥当ではありますが…。

このダイジンが鈴芽に行った行為に、僕は「失われた教育」があるなぁって思ったんです。

このダイジンに注目して徒然なるままに語っていきます。

厳密に言えば、ダイジンが果たした「教育的機能」について語って見ます。


ダイジンは、鈴芽の生き方を大きく変えました。ダイジンと出会わなければ、彼女は変わらずに普通の高校生らしい生活をしていたと思います。

でも、鈴芽は、ひょんなことでダイジンと出会い、ダイジンに振り回され、そして、大きく成長していきます。いや、「成長」というよりは、「変身」します(色んな意味で)。

その「変身」に、僕は「失われた教育」の大きな意味を感じました。

(映画の前半では)なんだか分からない白猫のダイジンですが、描かれ方としては、「めちゃめちゃ嫌なヤツ」です。しかも、声優さんは8歳の「山根あん」さん。この8歳の子どもの自然な声、というところに、どこか不気味さがあって、「す~ずめ、好き」っていうセリフも、(音としてはかわいいんだけど)不気味なんです。

先生というのは、そもそも(子どもにとって)「不気味な存在」でよかったんですが、今はその不気味さを許さない空気に満ちています。不気味さを感じる先生は、今の時代、まず排除されます。残る先生は、不気味さのカケラもない、公務員型・サラリーマン型の退屈な存在です。この映画では、「高校生」が主人公なのに、教師は全く出てきません。

ここに「失われた教育」の姿が見えたんです。

この不気味な存在としての導き手(教育者)は、『星を追う子ども』に出てくる森崎先生にも通じる話、…どころか、そのまんま「小学校の先生」でした。森崎先生も最初から最後まで、謎に満ちた不気味な存在でした。そして、その不気味さのまま、主人公の明日菜の成長(変身)を(意図しないまま)促しました。鈴芽と同様、「隠れていた(隠していた)感情と向き合う」という成長=変身でした。『言の葉の庭』でも、教師を辞めた雪野百香里が「不気味な存在」「未知の存在」として、主人公の孝雄と関係を作っていきます。

ダイジンは、(映画PVでも出ていますが)鈴芽が惚れそうになっている宗像草太をいきなり「椅子」にしてしまいます。これは、「子どもにとって大切なものの否定」を表わしています。突然現れたダイジンが突然行ったのが、「草太」の否定であり、その否定によって生まれた怒りが、この映画の出発点になっています。

教育というのは、「子どもの自明性(子どもが当たり前に好きだと思っている物事)を否定すること」で成り立っている部分があります。子どもが当たり前に思っているものを、「本当にそうだろうか」と疑い、子どもに厳しく迫るのが、前世紀の教育の「柱」でした。

鈴芽は、いきなり草太を椅子にしたダイジンを追いかけます。なんとか草太をもとに戻そうと追いかけ、船に乗り、新幹線に乗り、九州からどんどん北上していきます。

ダイジンは、九州の宮崎から四国~神戸へと、鈴芽を導いていきます。狭い世界の中で過去の(総括できない)悲しみや辛さを抱えて生きてきた鈴芽を、知らない世界へとどんどん導いていくのです。

このあたりも、やはり「失われた教育」を感じずにはいられませんでした。

ダイジンは、鈴芽の大切なものを完全に否定し、そして、鈴芽に後を追わせます。どんどん東へ、北へと鈴芽を誘導していきます。このあたりも、今の教師たちにはできない「教育の技」を感じるのです。

自分の後を追わせるような仕掛けを創る教師の技…。それは、僕がこれまでずっと「こだわってきたこと」でもありました。

船に乗るシーンがありますが、昨年、僕も9名の学生を連れて、瀬戸内海の船に乗って旅をしました。そんな船の旅も、今の時代、本当に難しいのです。僕自身、ダイジンのように、学生たちの興味や関心のあるものを否定し、怒りを買い(苦笑)、そして、逃げて、学生たちを追わせ、そして、生活世界の外へ、県外へ、海外へ、ドイツへと導いてきました。

そういう教育は、もう今の時代、とてつもなく難しいんです。そういう意味で「失われた教育」だなって思うのです。僕自身にとっても…。

子どもたちの興味や関心のある<もの>の否定」は、教育学的には「伝統的な技」です。ソクラテスの対話じゃないですけど、まずは、「疑い」と「否定」から教育的な対話は始まります。

でも、それをすると、今の時代、「不快な気持ちにさせられた」とクレームが入るのです。「否定」は「不快」となり、訴えられる可能性さえあるのです。

だから、今の教師は、子どもたちを否定しないし、子どもたちの世界にあるものも否定しない。なんでもかんでも「肯定」から始まるのです。肯定から否定になっていけばよいですが、一度肯定したものを否定するのは難しいのです。

ダイジンは、あっさりと一瞬で草太を椅子にしてしまいました。ここに失われた教育を見るのです。子どもたちの生活世界を否定することで、教育的な機能が起動し始めるのに、それが今はできない。まさに「喪失」…

映画を見た人なら分かると思いますが、ダイジンは映画の中盤から、「悪い存在」なのか「良い存在」なのかが分からなくなってきます。草太を椅子にした不気味な存在であるにも関わらず、どうしても「完全な敵」にも見えなくなってくるんです。

もちろん、椅子になった草太を「要石」にしてしまうダイジンですから、「なんだ、こいつは?!」ってなると思います。が、それでも、ダイジンが「完全なる悪者」にも思えないんです。

ここもまた、「失われた教育」の姿を見ることができるかと思います。教師というのは、「正義」か「惡」か分からない存在でよかったんです。「GTO」にしても、「ヤンクミ」にしても、「女王の教室」の「阿久津真矢」にしても…。

この阿久津真矢のセリフは、もう「正義」か「惡」か分かりません。

ただ、今の時代にこんなことを言う教師は、まず叩かれ、謝罪に追い込まれるでしょう。このドラマの阿久津真矢は、「パワハラ教師」であり、保護者やマスコミによって一瞬で「懲戒処分」になることでしょう。

でも、阿久津真矢は、多くの視聴者たちの心を掴みました。最初は「悪い存在」だったのに、徐々にその悪い存在の中に「正義」が見えてくるんです。そう、「すずめの戸締まり」に出てくる「ダイジン」のように…。

本来の教育における教師というのは、そういう「正義」と「惡」が錯綜する存在だったはずです。否、教師というのは、正義でもあり惡でもある存在であり、また完全な正義でもなく、完全な惡でもない存在…

その正義と惡の中間にあった教師が、今の学校にはもういないんです。そういう意味でも、「失われた教育」をこの映画から見て取れるのです。

今、気づくべきは、教師自身が「惡」を抑圧し、偽善なる「正義」を無理に生きなければならない「息苦しさ」なのかもしれません。それは、本作品で鈴芽が自分自身の無意識に気づけたことと重なりそうです。

そして、映画の後半、驚くような展開になっていきます。

最初は、誰もがムカつく意地悪で嫌な白猫だった「ダイジン」でしたが、後半戦~終盤戦に、そのダイジンが鈴芽にしてきたことの「意味」が明らかになっていきます。

この辺は実際に映画を見ていただいてほしいところなので、あまり具体的には言いませんが…。

ダイジンが鈴芽に与えたものは、あまりにも大きなものでした。しかも、それに鈴芽自身が気づく時には、もうダイジンはいないんです。

ここにも、失われた教育の意味が見て取れるかと思います。

教師が子どもたちに与えたものは、その教師がいなくなった後(卒業後)に気づくこともいっぱいあるんです。逆にいえば、卒業するまで(=ダイジンがいなくなるまで)は、気づけないことの方が多いんです。

でも、今の社会は、そういう不確かで曖昧な教育的な意味や価値を見ようとしないし、認めようとしないし、すぐに分かる変化だけを求めようとしています。

「ああ、先生が言っていたのは、そういう意味だったのか」と後になって気づくことって、たくさんあるんです。あったんです。先生だけじゃない。親や親戚のおじさん・おばさん、近所のおじさん・おばさん、おじいちゃん・おばあちゃんの言っていることのほとんどが、そうだと思います。

そういう「後になって分かること」「大人になって分かること」が全く存在しないのが、今の教育の現実になっているのではないか、と僕はとても懸念しています。

映画の後半のダイジンの存在(まわりの人に与えた影響)というのは、まさにそういう「失われた教育」を映し出しているように思えました。

鈴芽だけではありません。ダイジンは、鈴芽の叔母である環(たまき)にも大きな変化をもたらしました。ずっと自分のことを犠牲にして、自分の気持ちを封印して、悲しみを背負った鈴芽のことを「母」のようにして育ててきました。とても無理をして…。

そんな環の生き方をも、ダイジンは(結果として)変えたのです。

ここにもまた「失われた教育」の機能を見ることができるかと思います。

ダイジンによって、ダイジンの働きかけによって鈴芽が変わる。そして、その変わった鈴芽によって、母的存在である環も変わる。鈴芽と環が変わることによって、その二人の世界が変わる。

そういう変化をもたらしてきた教育も、今や完全に消えてなくなっているように思います。スクールカウンセラーやソーシャルワーカーたちに親のことを丸投げしている今の教育。親の変化をまったく促せない今の教育の現実。

そういうところもまた、この映画の見るべきポイントかなって思います。

と、思うままに書いてみました。

ダイジンは、物語上は「神様」扱いになっています。

が、この映画でのダイジンの果たした機能は、「神による救済」ではなく、「本来の教育」だったのでは、と思います。

今の教育現場では受け入れられない、けれど、教育それ自体として欠かせない要素がいっぱい詰まっているのが、この映画ではないでしょうか???、と。

この映画は、今の教育に潜む問題点を(誰にも分からないような仕方で)あぶり出しているように見えます。

その扉の向こうへ。

本当に美しくも切ない映画でした。

基本的には「パラレルワールド系のファンタジー映画」みたいになっていますが…

そこに、かつてのあの災害(&歴史的災害)を重ねることで、リアルすぎる現実とファンタジーのスリリングさをより強いものにしている作品だなぁって思いました。

このリアルすぎる現実とファンタジー的な非現実性を行き来するスリリングさは、既に『雲のむこう、約束の場所』や『星を追う子ども』でもはっきりと描かれていますね。

この作品もまた、現実的な問題とパラレルワールドを描いた新海さんの初期作品です!

この作品、世間的には不評だったみたいですが、僕はすごくすごく好きです💖

宮台先生的には、「絶対性」と「不可能性」が見事に同時に描かれている作品ですね。(それに比べると、「すずめの戸締まり」は、「その先」を描いてくれてはいますね…。いいか悪いかは別にして)

この作品も「教師」が登場します。「教師」を辞めた教師が…

また、この映画についての「映画評論家らしい評論」についてはこちらを是非!

岡田さん、やっぱり凄いです…💦

なるほどなぁって思わされました。

映画館ってやっぱりいいですよね~。

非日常空間に行けちゃうんですもの。

家で、テレビ画面で見る映画とは全く違う経験ができます。

みなさんも是非、映画館で映画を見てほしいなぁって願います。

映画鑑賞もまた、人間の生を支える「遊び」の一つですからね。

遊ぶことで見えてくるものこそ、自分の仕事や生命維持活動に良き影響をもたらすんです。

仕事の反対が遊びなのではない。仕事をよりよいものにするのもまた遊びなのだから。

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