元少年Aの『絶歌』を、今、読み終えた。
一言で言えば、「出版すべきではなかった本」であり、それと同時に、「知るべきことが書かれた本」である、という両義的な本だった。
それと、「今、出版すべき時ではなかった本」であり、「今、まさに読まなければならない本」、であった。
さらには、「読むべきではない本」であり、「読むべき本」である、という矛盾する本であった。
いや、「読むべきではない人には読むべきではなく、読むべき人には読むべき本」、というべきか。
僕の基本的な考え方として、「被害者」と「加害者」は、非対称関係であり、絶対に交わり合わない存在同士である、というのがある。
「被害者」の苦しみは、ずっと、きっとその人が死ぬ時まで、消えることなく、続くのだろう、と思う。
と、同時に、「加害者」の苦しみも、その人が死ぬまで、ずっと続くのだろう。
その間には、深い深い溝があり、分かり合うことは絶対的になく、認め合うことも絶対にないのだろう、と。
そういう意味で、この本の出版を差し止める意見は十分に理解できるし、それに異を唱えることもできない。
「被害者」となった人の気持ちを考えると、とても許せるものではないだろう、と。
けれど、「僕」は、この本を読んで、深く深く考えさせられた。
(この本の出版を断じて認めるべきではない、という立場の人は、以下、読まないでください)
(普段からこのブログを読んでくれている人向けです)
僕がベースにしている「解釈学」では、「書き手(著者)」と「テクスト」を切り離して考える、という基本姿勢がある。
「書き手以上に、テクストを理解する」、というのが、解釈学の一般的な目標でもある。
僕は、実在する「元少年A」が書いた「テクスト」を一度、留保し、テクストだけに集中して、感想を述べていきたい。
このテクストが、本当の元少年Aかどうかも問わない。あくまでも、「言語」として、この文章を理解していく。
まず、驚いたのは、この彼の文章が、きわめて美しく、上手く、きちんとした文章である、ということ。
僕も文章を書く身として、「自分より文章がうまいのでは?」、と思うほどに、文章がうまかった。
本の中にもあるが、彼は、刑務所の中、そして出所後に、数々の「名著」に触れている。
彼は、その「名著」から、「言葉」を学んだのだろう。文章そのものに、文学的な力がある。
しかも、(現時点で)同じ30代ということで、とても分かりやすい、というか、伝わりやすい文章になっている。
僕が普段接している「学生」よりも、はるかに、文章がうまい、そのことに驚いた。
(*作家の柳田邦男も、「表現が、つまり言葉や形容句の使い方が、三島由紀夫やドストエフスキーなど古典的な文学作品を想起させるような文体になっている」、と指摘している)
この本は、二部構成になっていて、第一部が、「事件前~逮捕頃」のことで、第二部が、「出所後」のことが書かれている。
正直、第一部の方は、すでに出されている書物等に書かれている内容とほぼ一緒であり、本書全体としては、「読むべきではないところ」(同時に「読むべき人には読むべきところ」)だと思う。
ただ、「そうだったのか…」と思う部分がいくつかあり、それは、改めて考えさせられるものだった。
(とある本で、僕も彼のことについて書いているので、その再確認として学ばせてもらった)
この本を、わざわざ日本全土からの非難を覚悟で、出版しようと思わせたのは、「第二部」であろう、と推測する。
この「第二部」こそ、この本が、「今、出さなければならない」、その根拠となったのだろう。
「第一部」だけであれば、出版すべき本ではない、ときっと、出版社も判断しただろう。ことに、この本を担当したのは、『現代思想』に精通する落合美砂さんだ。彼女は、単に「金儲け」のために動くような人ではない。それは、思想家の東さんのtwitterからも推測できる。
なぜ、彼女は、そして出版社は、この本を、「今」、出そうとしたのか。
その僕の一つの「答え」は、本書の最後の部分にある。
本書の最終段階では、「人を殺すことが、どれほど、その人自身にとって苦しいことか」、を、言葉をかえ、表現を変え、述べられている。
これらの「内省」は、元少年Aだけに通じる話ではなく、「人を殺した人であれば、(ほぼ)誰もが経験する苦しみなのだ」、ということが分かる。
先日、2003年~2009年の間に自殺をした(イラクへの)派遣自衛隊員の数は、29名であるということが報じられた。
その内実はよく分からないが、この問題と、本書の「叫び」が、僕には重なって見えた。
アメリカでも、若い元軍人が、自殺をしたり、精神的な病に臥したり、という話が多いと聞く。
少し長いが、引用する。
…どんな理由であろうと、ひとたび他人の命を奪えば、その記憶は自分の心と身体のいちばん奥深くに焼印のように刻み込まれ、決して消えることはない。表面的にいくら普通の生活を送っても、一生引き摺り続ける。何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。そうなって初めて気が付く。自分がかつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。一度捨て去った「人間の心」をふたたび取り戻すことが、これほど辛く苦しいとは思わなかった。まっとうに生きようとすればするほど、人間らしくあろうと努力すればするほど、はかりしれない激痛が伴う。かといって、そういったことを何も感じず、人間であることをきれいさっぱり放棄するには、この世界には余りにも優しく、温かく、美しいもので溢れている。もはや痛みを伴ってしか、そういったものに触れられない自分を激しく呪う。(pp.282-283)
この文章から、僕は、「人を殺すということ」が、どれほどその人間の後の人生に深い傷を残すのかを学んだ。
と、同時に、「人を殺しに、戦地に行った人が、その後、そのことでずっと苦しめられること」を学んだ気がする。
今も、テレビ等で、90歳以上の人が、時折、涙を流しながら、かつての「殺人」を語る人がいる。正直、「どうして、そんな昔のことなのに、泣くんだろうか」、と疑問に思っていた。
でも、それは、違った。リアルな戦場で、人を殺め、蛮行を繰り返し、しかも、その時に感じる「高揚感」に、深い罪悪の念を抱かせるのだ。
元少年Aの許されざる犯罪行為と、戦場で行われる殺戮とを重ねることは、無理のある話かもしれない。
けれど、僕には、どうしても、その両者がつながっているように思えてならなかった。
僕の妄想が正しければ、この『絶歌』は、自衛隊の海外派遣等が「法的」に認められそうになっている「今」だからこそ、出版したのではないか。
彼の本をすべて読み終えた後の、僕の「直観」である。
どういう経緯であれ、「人を殺す」、「罪のない人を殺す」という経験それ自体は、変わらない。
たとえそれが90年代の「平和」な日本であったとしても、10年代以降の荒廃した「戦場」であったとしても…。
ISILに命を奪われた後藤健二さんを「殺めた」あの男もまた、元少年Aと同じか、それ以上に卑劣な行為を行った。
戦争というのは、それ以上でも、それ以下でもない、蛮行でしかない。
元少年Aの「懺悔」の言葉たちは、「戦場に赴いた兵士」の「未来」の言葉となる。
(きっと後藤さんたちを殺害した彼も、(たとえ殺されなかったとしても)生きていけないだろう…)
「人を殺す」ということが、どれほど、その後のその人の人生に深い蔭を落とすことになるのか。
現首相は、「積極的平和主義」を掲げる。
でも、その内実は、この国にいる若い自衛隊員たちの「海外派遣」である。
しかも、それは、武力を伴う戦闘行為を含む派遣である。
そうした「愚策」を止めるために、学者や知識人をはじめ、多くの人が声をあげている。
そんな「今」だからこそ、≪どんな人間よりも「野蛮」な行為をしつつも、「少年法」ゆえに極刑を免れ、また、(極めて例外的に)自分自身を直視し、それを言語化できる『才覚』をもった元少年A=極めて例外的な存在≫の「生きた言葉」を、世に出そうと決断したのではないか。
本来なら、もっと彼の言葉を引用したいところだが、それは、「読むべき人」が自分で読んでもらえれば、と思う。
彼の「蛮行」を、「性的倒錯」や「快楽殺人」という文脈だけで、終わらせてはいけないだろう。
むろん、彼の行為は、(それこそ僕が18歳の時から関心をもっている)「快楽殺人」そのものだと思う。
その部分は、実際、それほど特記すべきところはない。彼の両親が、他の両親と比べて、明らかに劣っていたわけでもない(彼が、父親、母親について詳細に書いていることに驚いた)。
世界でも、彼の蛮行に似た事件を起こす人は、たびたび出てきている。
ただ、そのことを徹底的に内省し、(そもそも備わっていた?)知性をもって反省し、また、多くの偉大な文豪たちの言葉を自らに取り入れることのできる「(凶悪犯罪の)加害者」は、そう多くはないだろう。そういう意味でも、やはり、本書は、極めて「例外的な書物」だと思う。
出所後、彼には、たくさんの「支援者」がいた。
「ハッカイ」、「サゴジョウ」、「ゴクウ」、そして、里親の「Yさん」、「寮母さん」、「ジンベイさん」、「イモジリさん」、「次長」、「課長」、さらには、塗装工のGさん、喫茶店の「マスター」…
この本を読むと、元少年Aに、どれだけ献身的な人間がそばにいたかがよく分かる。
特に里親の「Yさん」は、かつての付属池田小殺人事件で死刑となった宅間守と獄中結婚した女性と重なっている。
(むろん、被害者側の立場の人には、それとて到底許容できない話かもしれないが…)
「それでも」。
元少年Aは、苦しみから解放はされなかった。そもそも、「誰かの命を奪う」という行為に、「赦し」はないのだろう。
そこに、「ケア」の限界はあるにせよ、それが「無駄」ではないことを、この本は教えてくれる。
彼は、この世の中にいる「いい人間」との出会いによって、そして彼らに支えられることで、本当の苦しみを知った、とも言えるかもしれない。
第一部を読み終えた時点では、「この本を出版すべきではなかった」、と思う自分がいた。
「時期尚早だ」、と。
こういう内省的な文章は、関係するすべての人が亡くなった後で、「発見」されて、出版されるべきだろう、と。
でも、第二部を読んで、考えが変わった。
「これは、(戦争なき)70年の平和の歴史が脅かされている「今」こそ、読まれなければならないのだ」、と。
平時であれ、戦時であれ、「人を殺す行為そのもの」は、同じである。
それがいったい、実際に、具体的にどういう行為であり、どういう帰結になるのか。
それを、ありありと感じさせてくれた、と、今、僕は思っている。
ただ、だからといって、「みんなも読んでください」、とは絶対に言えない。
(やはり、「当事者」が皆存命する今、時期尚早だったという思いも拭えない…)
読むべき人が読めばいい。
だから、メディアも、この本についてあれやこれやと「薄っぺらい発言」を繰り返さないで、スルーしていただきたい。
この本の(真の)読者層は、そう多くはないはずだから。
(そもそも文章が長いし、内容も、幅広い学術的な知識がたくさん問われる内容が続いている)
この本を読むためには、相当の「リテラシー」が問われると思うし、読み手の「知性」も「寛容さ」も最大限に問われる。
それに、思想的立ち位置も、大いに関係してくる本とも言える。
被害者の側に立ちたい人、死刑賛成派の人、多数派を支持したい人には、理解不能な本でしかないだろう。
現首相支持派の人も、とうてい受け入れがたいだろう。
また、僕が研究の主題にしている「緊急下の女性」とも、深く重なり合う話である。
妊娠中絶、児童遺棄、児童殺害、児童虐待(死)もまた、「殺人」であり、そのことに苦しみ続けている人はいる。
でも、世の中は、そういう女性を、「加害者」、「犯罪者」としてしか見ないだろう。
遺棄する母親や虐待死させる親を「許せない」人は、きっとこの本も「許せない」はず。
これが、僕の、この本を読み終えての「ファーストインプレッション」でした。
この僕のつたない言葉で、「読んでみようかな」、という人がいれば、その人にだけ、そっと「読んでみて」、と伝えたいです。
<了>