先日、元官僚(元厚生次官)の連続殺傷事件があった。最初は「テロか?!」と騒がれたが、犯人はなんとも言えない人だった。
幼少期に犬が殺されたことが引き金だったとか。彼にとって「犬」とはどういう存在なのか。おそらく彼はまだ真実を語っていないと思う。ただ彼にとって「犬」は重要なキーワードなのだろう。この「犬」が何を意味しているのか。
そんな彼は、「人生に未練がなくなった」と言っているという。(HERE)
僕は事件そのものよりも、この彼のなんとも言えない発言がとても気になった。TVや新聞で見る彼の表情に「生気」が感じれなかった。彼の「目」はなんともいえないくらいに透明だったように見えた。劣悪な犯罪者なんだけど、彼を見ていると、なんか悲哀というか、寂しさというか、虚しさというか、そういうなんともいえない「絶望感」を感じてしまうのだ。
人生に未練がない・・・
いったいどんな感覚なのだろう。人生、自分に未練がない。未練がないというのは、「諦めきれないものがない」ということだ。つまり、人生に諦めきれないものがなくなった、ということだ。この感覚は極めて現代的な感覚のような気がする。
諦めきれないことがあるっていうのは、心のどこかにまだひとかけらの「希望」があるということだ。「もしかしたら・・・」という希望的仮定法がある、ということだ。どんなに人生が辛いものであったとしても、「もしかしたら・・・」という希望があれば、なんとかそれを乗り越えることはできる。フランクルの「それでも人生にイエスという」というのも、これに当たるかと思う。
けれど、例えば「もしかしたらいいことがあるかもしれない」という希望的仮定がなくなってしまったら・・・ 人生にイエスということに意味を感じられなくなったとしたら・・・
何かを期待したり、何かを待ち望んだり、何かを待ち焦がれたり・・・ そういうことって、人間が生きる上でとても大切なことだ。だが、そういうものが一切なくなったら、人間はどうなるのだろう?
まさに彼は、そういう状態に陥ってしまったのだろう。諦めきれないものが何もない。そこにあるのは「無」なのかもしれないし、「絶望」なのかもしれないし、「虚無」なのかもしれないし、「ニヒリズム」かもしれないし、「デカダンス」なのかもしれない。いずれにしても、彼には、諦めきれないものが何にもなくなってしまったのだ。
お金、結婚、夢、楽しみ、趣味、地位、名誉、愛情、目標、快楽・・・
そういったものが何にもない・・・
未練のない人生・・・
それはきっと恐らく、耐え難い感覚なのだろう。だから、あんな残忍な事件を起こしたのだろう。未練がなくなるというのは、自分の人生を無にしてもいいと思わせるほどに耐え難いことなのだ。もし人生に未練がなくなることが辛くないのなら(楽なら)、こんな事件を起こすわけがない。未練がなくなるというのは、何よりも耐え難く、偲び難きことなのだろう。
近年、こういう事件が増えている。「誰でもいいから殺したかった」、「どうなってもいいと思った」、「死刑になってもかまわない」・・・ こうした事件の背景には、動機がないという動機があって、人生の諦めが強く感じられる。
人間というのはやっかいなものだ。物質的な豊かさがなければ、人間はそれを求め、必死になる。けれど、物質的な豊かさがあっても、人間は人生に意味を見出せない。精神の豊かさを主張しても、われわれの生活は全然改善されないし、精神の豊かさがあっても、物質的な豊かさがなければその豊かさは枯渇する。
でも、一つだけキーワードがある。こういう感覚に陥る人は皆、独身で孤独を抱えている、ということだ。愛する人がおらず、誰にも愛されず、孤独に寂しく生きている人が、まさに未練をなくしているのである。
人間は群れをつくる生き物だ。群れずに社会から孤立して生きることは、人間が最も苦手なことなのだ。誰かと共に生きることを、人間は根本的に求めているのだろう。われわれは人とのかかわりをもたずに生きていくことなどできない。どんなに面倒であったとしても、人とかかわりながら生きていきたいと思うのが人間なのだ。
けれど、それがうまくいかない。
僕らが学ばなければならないことは、やはり他者と共に生きることなのであろう。「人生に未練がなくなった」、というのは、「人とかかわる気持ちがなくなった」、と解釈してもいいかもしれない。人間社会で生きていくことに意味を見出せなくなった、と言ってもいいかもしれない。
哲学が社会に貢献できるとしたら、「人間社会で生きていくことの意味への問い」をしっかりと立てて、それに答えることであろう。
彼が発した言葉は何よりも重い気がしてならない・・・