教育(学び)の根源にある愛着、愛情。
大切にされない子どもは、何か対象を大切にすることができないし、そもそも「対象化」そのものが難しい。
学びの出発点は、「対象化」だと思います。何かを見た時に、「何だろう?」と思うその直観(直感)があらゆる学びの初期衝動だと考えれば、「何だろう?」という「対象化」は、教育学的に無視できないはずなんです。
その対象化を支えているのが、特定の他者から「まなざされる」という経験だと思います。特定の他者にまなざされている子どもは、安心して外の世界に飛び出ていくことができます。
さらに、小さい乳幼児の場合、しっかり抱っこされて、しっかり抱きしめられて、しっかりと声かけられて、それを十分にやって、ようやく安らぎや落ち着き(Gelassenheit)を得て、安心感(Geborgenheit)を得て、じっと何かを「見る」(観察、対象化の根源)という行為が可能となっています。
特定の他者=「養育者」は、たいていの場合、「産みの親」がなることになります(変な言い方だけど)。けれど、すべての産みの親が「養育者」になれるとは限りません。色々な事情から、やむなく子どもを手放さなければならない産みの親は多いのです。その数、ざっと4万人くらい。計8万人の男女が、やむなく子育てを断念しているのです。そのほとんどの人が、やむなく手放していると思います(喜んで子育てを放棄する人はいないと思います。喜んでいたらその人はある種フェティズムの世界にいます)。
自分の限界を超えるほど追いつめられている親を、「育児放棄」と責めることはできません。大事なのは、ギリギリまで追いつめられた親を支えること、子どもの愛着、愛情を保障すること、親子の安全を守ること、児童遺棄・児童殺害を起こさせないこと、もっと言えば、社会全体で子どもを守るということ、そして、子どもの学習権を奪わないこと、などだと思います。
そこで問題になるのが、親から託された子どもをどのようにして社会で育てていくか、ということです。現在は、乳児院、児童養護施設に預けられる子どもが圧倒的です。特別養子縁組や里親は、希望者は多いものの、なかなか数的に際立っていません。また、子ども自身が虐待されたりネグレクトされた後で保護されるために、子ども自体、かなり「末期症状的」な状況に陥っています。
例えば…
http://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/67c42bf02cdf9ea41157bae2e66af2a4
上の事件の女の子をいったい誰が養育できるでしょう。絶望しきった瞳が目に浮かびます。猟奇的な環境で育った子どもたちを、一般の人が支援・養育するのはほぼ100%不可能でしょう。
さらに、里親が子を殺すという事件もありました。声優でもあった鈴池静さんが里子を殺害し、それが話題になりました。世の中は彼女を責めましたが、それは深刻な虐待を受けた子どものリアルな姿を知らないから言えるわけで、ボロボロになるまで実の親に蝕まれた子どもとの関わりがどれほど難しいか、分かっていないと思います。(参考=http://www.news-postseven.com/archives/20110829_29460.html)
つまり、何が言いたいかというと、虐待を受けてからでは、養育は極めて困難である、ということです。ベテランの養護施設職員さんも言っていました。「昔は孤児が多かったから、そんなに困ることはなかった。けれど、この数十年の間に一気に変わった。職員が潰されることが圧倒的に増えた。子どもたちがかわいく見えなくなった。複雑になり過ぎている」、と。
戦後、戦災孤児が溢れ、それに対応する形で、乳児院・児童養護施設は発展してきた。彼ら孤児にも親はいなかったが、親に過度に殴られたり、無視されたり、言葉の暴力を浴びたり、熱湯をかけられたりはしていない。親がいない子どもと、親に虐待された子どもは、根本的に違い過ぎます。
なのに、社会福祉のシステムはそれに対応しきれていない、そのことが問題だと思うのです。
まわりくどくなりましたが、次のような記事がupされていました。
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保護乳児、里親委託13%…26県市は委託ゼロ
虐待や病気などで親が育てられず2010年度に全国の児童相談所が保護した0~1歳児のうち、87%が乳児院に預けられ、13%は里親へ預けられていたことが、厚生労働省の初の全国調査で明らかになった。
国は特に幼い乳幼児は「里親へ委託」の方針を打ち出しているが、自治体レベルでは進んでいない実態がわかった。
同年度に全国の児童相談所が保護した0~1歳児は2110人。児童相談所を設置している47都道府県と22の政令市・主要市のうち、26県市は里親委託がゼロだった。保護した子供が377人と全国最多だった東京都は、里親委託は13人のみで、97%の364人が乳児院に預けられ、施設優先が顕著だった。一方、山梨県では85%、北海道(札幌市をのぞく)では69%が里親に委託されており、自治体間格差が大きかった。
引用元
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111001-OYT1T00890.htm
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外から見れば、乳児院や児童養護施設でいいじゃないか!と思われるかもしれませんが、その中を見ると、やはり、それに同意しかねるのです。もちろん施設の職員さん(教え子にも多くいます)は、とてもよく頑張っています。が、それとシステムの不備は別の問題です。家族が根こそぎ崩壊している今の時代、乳児院や養護施設が必要不可欠なのは言うまでもありません。ただ、どうしても親が養育できない場合、それに代わる養護システムが必要なのです。親になれない親を信じて待つことも大事ですが、子どもは待ってはくれません。性善説をうのみにすることもできません。親自身が心の奥底から闇を抱えている場合、その親自身が長い時間をかけて、育てなおされなければなりません。
外国の取り組みの全てがいいとは思いませんが、欧州では、もう実の親に子育てを任そうとはしていません。きちんと養育できる特定の他者であれば、誰でもよい、と考えるに至っています。
日本は、僕の見解ですが、「母子神話」、「血縁重視」に囚われている、というか、呪われている気がします。子どもにしてみれば、愛情を与えてくれる人であれば、極端な話、誰でもいいんです。小さい赤ちゃんは、その特定の他者が実の親かそうでないかなんてどうでもよくて、自分を守ってくれて、自分を温かいまなざしで見つめてくれる人を必要としているのです。それはとてもたいへんな作業(?)です。(もっと納得いかないのは、通常はバンバン麻酔を使っているのに、無痛分娩に対してはすごい冷たいんです。痛みをもって子を産めという宗教的発想?から、日本人は抜け出せ切れない。なぜ母だけが痛みに耐えねばならぬのか… 全くもって理解できない。当の女性自身も、「痛みをもって産まないと、母性がでない」という迷信をもっています)
親も苦しい。子どもも苦しい。施設職員も苦しい。みんな苦しんでいる中で、ギリギリのところでやっているのが、現在の児童福祉のシステムだと思います。
なのに、ちっともシステム自体は改善されないまま、戦後に作られた枠の中に踏みとどまっています。
上の記事に基づけば、国ではなくて、地方自治体レベルで議論が進んでいないということが分かるはずです。自治体レベルの話だということは、僕ら市民・住民の問題だということですし、きわめて地方行政・政治的な問題だということになります。
この問題を、教育問題に引き戻して終わりにしよう。
親に愛されないで育っている子ども、親に身体的・精神的に虐待を受けている子ども、ネグレクトを受けている子どもは、心理的問題のみならず、学ぶ権利も侵されています。学力の低下は、学校の問題というよりも、家庭格差に基づいているのではないか、と思うのです。知性の高い子どもは、家庭環境が物理的・心理的によく整っています。逆に、問題のある子ども(特に思春期以降)の場合、たいてい家庭環境が劣悪です。家庭環境の良し悪しが学力に影響を及ぼしていることは、数々の研究で指摘されていることです。
大切なことは、優秀なエリートを増やすことではなく、劣悪な環境で育つ子どもを断つことだと思うのです。俗的にいえば、いい子を増やすのではなく、悪い子を減らす、ということにもっと力を入れるべきです。東大の広田先生も『教育』の中で、同じようなことを言っています。
人間が皆、優れていなくても、腐っていなければそれでいいじゃないですか。皆が、貧しくても、心やさしく、何かに怯えないで、愛情不足になっていなければ、それが最高に幸せな状態ではないでしょうか。
今、教育学にとって重要なのは、教育を受ける以前の子どもの地平をきちんと見つめることだと思います。本にも書きましたが、いじめの場合、いじめられる子どものケアよりも、いじめる子どものケア、いじめる子どもの家庭環境の改善こそが、重要なんです。平和な家庭の子どもは、喧嘩こそしても、いじめはしません。また、いじめられる子どもも、家庭環境さえしっかりしていれば、いじめという人生の最初の難関を突破することはできます。
教育学で語られる多くの問題は、家庭環境の問題と直結しています。学力、いじめだけじゃないです。あらゆることが、家庭や親、育つ地域環境、文化に影響されているんです。教師の力を信じていないわけではないですが、教師の力量や職務範囲を超えた課題が各種学校(幼稚園~大学まで!)にはたくさん横たわっているのです。
もはや教育学は教育学内部に収まるものではなく、児童福祉、心理学、政治学、地域学などと連携しながら、ないしは包括的な視点から捉えなおさなければならない、と思うんですよね。
自分にそれができるかは分からないけど、そこが自分の教育学者としての使命だと思っています。もちろん、自分の人生がそれをやれと言っているわけで。。。僕自身、学校に潰されながらも、なんとかそこそこ生きられているのは、親がしっかりしていたからなんです。学ぶ意欲や学ぶ力が殺されなかったのも、学校が優れていたからではなく、親が学ぶ人間だったからです。
学べる親に育ててもらうことこそが、学ぶ人間を作る上で欠かせないんです。親どうこうはどうでもいいです。学ぶ人間と出会い、学ぶことの楽しさ、感動、変化することの楽しさ、視点を変えてみることの面白さを教えてもらう経験こそが、学校での学びには欠かせないんです。だから、学校こそが家庭にお願いすべきなんです。「お子さんを善い大人にしようと思うなら、まず親御さんが学び続けてください」、と。「学校で子どもが楽しく学ぶためには、子どもが家庭でしっかりと愛されている必要があるのです」、と。
それができないなら、安心して、子どもを預けられるシステムが必要なんです。それが、全ての子どもを守る、ということの意味だと思います。