Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

『それでも人生にイエスと言う』

社会福祉の対象となるのは、一般に、
①高齢者 ②障害者 ③子ども ④困窮者、と言われている。

この中で、最も古くから福祉の対象として考えられてきたのが、
④の困窮者だ。(意外と知られていない事実かも!?)

困窮者の救済は、その人自身の救済にとどまらない。
困窮者の救済は、その国の安全や安心を守ることを意味する。

どういうことか。

困窮者が増えれば、それだけ生活が不安定な人が増える。
そうすると、当然ながら、窃盗や強盗などが増える。
その結果、犯罪が増え、国の安全が脅かされる、ということだ。
これは、社会福祉の基本的な考え方である。

では、困窮者を減らすためにはどうしたらいいのか?

困窮者を減らすためには、
①雇用をきちんと生み出すことと、
②労働の意味をきちんと教育すること、
この二つが必要不可欠である。

①の問題は、今後日本がどのような国を目指すのか、
という国家ヴィジョンと関連する。
第一次産業~第三次産業の配分をどうするのか、
ということとも関連する。

今の日本は、東京を中心とする第三次産業が中心となりつつあり、
第一次産業と第二次産業が色んな意味で疲労状態にある。
農業を目指す若者が増えてきたとはいえ、まだまだ少数派だ。
そういう若者を支える社会基盤もまだまだ乏しい。

深刻なのが、これまでの日本を支えてきた第二次産業であろう。

「ものづくり日本」という「神話」が揺らぎはじめ、
また、世界経済の波に揺さぶられはじめ、
日本が今後どのような方向に向かうのかのヴィジョンが見えなくなった。

日本が今後進む可能性があるのは、

(1)北欧のような、第三次産業特化型の社会
(2)独仏のような、第一次産業と第三次産業の融合社会
(3)新興国のような、第二次産業に強い社会
(4)一次産業~三次産業を束ねる新たな産業を目指す社会

かな、と思う。

(4)の産業は、「第六次産業」という言葉で表現されたりする。

しかし、どの社会を目指すにしても、働き手の意識改革も重要だ。
つまり、②の働くことの意味を再考することも重要だと思う。

今の20代~40代は、いわゆる「豊かな社会」で育ってきた。
自分に合った仕事を探すことを学んできた。
「本当の自分探し」を「したい」と思うようになった世代だ。
「働きがい」を求めるし、「働くことの意味」も問うようになった。

だけど、「働きがい」を感じる人はどれだけいるのか?
「充実」や「満足」を感じて働く人がどれだけいるのか?
そういった「充実」や「満足」を仕事に求めることが正しいことなのか?

働くということは、まずもって生きるための糧を手にすることだ。
いや、もっといえば、働くことは、生きるための条件だ。
楽しさや快適さなど、仕事には本来全く関係のないものだと思う。
働くことは、「欲求」ではなく、「義務」であり、「責任」である。
義務や責任は、根本的に、決して充実や満足を引き起こすことはない。
(たまには、満足を引き起こすこともあるかもしれないが)

生きる。そのために働く。
ただ、それだけのことだ。

労働は、究極的には、「人生の目的」にはならない。
労働は、「人生の目的=生きる」の手段でしかない。
その手段を失うということは、目的を失い、「終わり」を感じることになる。
(ラテン語のFinisに、目的と終わりという意味があるということで)

なぜ、こんなことを書くかというと、次のような記事があったからだ。

生活保護受給者、170万人超に=厚労省
10月8日18時35分配信 時事通信

 2009年7月の生活保護を受けた実人員(速報値)が、前月比2万1102人増の171万9971人となったことが8日、厚生労働省のまとめで分かった。不況で失業者らの受給が増えたのが主な要因。170万人を超えたのは1964年5月以来、約45年ぶり。
 受給世帯数は1万4653世帯増の124万4660世帯で、15カ月連続で過去最高を更新した。 

実に、45年もの時を経て、生活保護受給者の数が170万を超えたのだ。

これは、もはや個人の努力や責任の問題ではない。
雇用をとりまく社会や時代の問題である。

が、しかし、それでも、そのしわよせは個人に跳ね返ってくる。
自殺者の数も現在とんでもない数になっている、と聞く。
社会の変化によって、ものすごい数の個人が犠牲になっているのだ。
失業や貧困は、人間の自尊心を破壊するし、人間をどこまでも追い詰める。

けれど、だからといって、個人が無力なわけではない。
そういう状況下にあっても、社会に押しつぶされない人もいる。
失業や生活保護という究極的な状況にあっても、
そこから這い上がろうとする人や、それに屈しない人もいる。

これは、まさにフランクルの『夜と霧』の主題でもあったことだ。

こんな時代だからこそ、
こんな社会だからこそ、読むべき本があると思う。

僕としては、あらためてフランクルの本をこの時代にお薦めしたい。
夜と霧に書かれていることは、見事なまでに今の状況に当てはまる。

「それでも人生にイエスと言う(Trotzdem Ja zum Leben sagen)」

どれだけ追い詰められても、
それに対して「イエス(肯定する)」ことはできる。
そういう希望が、この本から学べると思う。

Amazonのサイトはこちら
(池田さん訳が読みやすくてオススメ!)

コメント一覧

yukisuke
返信ありがとうございます。

「今」と「昔」では、現状が全く違いますよね
それは環境があまりにも変わってしまったからだとおもいます。

結局、人は環境に左右されるのでしょうか?
精神もそれにともなって変化して行くのでしょうね、、。
ならば、戦争が起きる世の中になっても仕方が無いのかなぁ。。

面白い話が合って、インドのピラミッドのなかに、「今時のわかいものは、、」という文章で書かれている石碑?があるそうです。

今も同じ様に「今時の若い者は、、」という人もいますよね。
つまり、歴史は繰り返すということでしょうか?

様々なことがあって、環境もめまぐるしく変わり、今ではそのスピードが昔よりも早くなったように思えます。人が世の中に追いついていないというか、追いつけるという人がすくないというか、、。

そういえば高齢者の施設で働いていると、思いがけないような言葉がありました。
「生きているだけでも、人生は得してるもんだ」

この言葉に「ああ、なるほどな」っておもいました。
フランクルもあの、収容所の中で自分の命を絶つ方法はいくらでもあったのに、それをしなかった。あんなに絶望的な、先の見えない混沌とした世の中なのに。

>>今の「現代人」たちは、そういうパワーが出にくい、出しにくい状況を生きている気がします。

その事実はきっと真実なんだと思います。

今の世の中は、非常に生きにくい。
いろいろなものが整備され、「生」か「死」かの局面が少なくなり、人間自体の「生きること」に対しての価値観が変わってきているようにもおもえます。

Kei氏は、生きることに対しての現代的な価値観とはどのようにお考えですか?
kei
yukisukeさん

高齢者の施設に移られたんですね!!
yukisukeさんにとって、
大きな飛躍になるといいですね!

最近、講義でEs(id)とリビドーの話をしています。生きる欲望というか、生きたいという衝動というか。。。

生きようとする執念が欠けてきているとしたら、それは根本から人間が崩れている、ということになりますよね。。。

死にたくないという畏怖は、どちらかというと自我の問題、あるいは意識の問題のような気がします。

なんか、衝動と理性の違いがある気がします。

僕らはどっちかというと頭ばかりが肥大して、衝動がなくなっているような。。。

僕は、幸か不幸か、アクシデントが多いので、いつでも「生きるぜ~」という衝動にかられています。名誉欲も強いし、成功したいという気持ちも強いです。だからか、生きてTOPに行くぞ、というパワーが根底にあるように思います。

高齢の方もそういう生きようとするパワーがすごくあふれている気がします。

けれど、今の「現代人」たちは、そういうパワーが出にくい、出しにくい状況を生きている気がします。幸せなことかもしれませんが、逆に不幸とも言えるような、、、

ただ、高齢の方でも、もし今の時代に生きていれば、きっとそうなってただろうし、時代精神にはさからえないところがあります。

けれど、近年はリビドーを強化するようなたいへんな時代になってきています。たいへんな時代だからこそ、人間はさらなる精神性を必要とする、ということであれば、人間はまた生命力を取り戻すのかな?、と。。。
yukisuke
私たちの居る場所は?
おひさしぶりです、Kei氏


「夜と霧」「変身」「ファスト」様々な本に出会ってきました

この世にまれて、それが生物であったなら、その物は今を生き伸びることが使命なのだろう。とおもいます。

「それでも人生にイエスと言う(Trotzdem Ja zum Leben sagen)」

これは、今この瞬間を生きる物にあたっての真実ではないかと思います。

生きるためになにかする。

それは自分を受け入れることから始まるのですね。

最近、世の中はよくない報道ばかりで、気がめいってしまいます。
それは、自分自身が落ち込んでいるからかもしれません。

今現在、高齢者の施設で働いていますが、戦争経験者の生きる力の強いことに驚きました。

まさに「命」について探究した人々です。


私たちにはナニが足りないのでしょうか?
「生きようとする執念」
なのか
「死にたくないという畏怖」
なのか、、。

どちらも、目的は同じですがそこにたどり着くまでのプロセスがちがいますよね?

それとも、単に希望を持てなくなってしまったのか。


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