今日は某仕事でいや~な思いをした。
講義や授業で失敗したり、くそ!と思ったり、批判がきたりすることに対しては、あまりいや~な気分にはならない。落ち込むことはあっても、それでなんともいえないいや~な気持ちにはならない。仕事のミスも、凹むけど、それはそれで割り切って頑張れる。
でも、対外交渉でのトラブルはホント気が滅入る。いわゆる「ビジネスライク」の関係は僕にはやっぱり無理。ゲゼルシャフト的な人間関係は、心底できない、というか、したくないという思いが強い。がゆえに、頑張って大学院に行って、大学組織に入った。けれど、僕の教えている科目の性格上、どうしても対外交渉は欠かせない。いわゆる「現場」のサポート無しでは成り立たないからだ。とりわけ、福祉や教育や保育といった現場職のリクルート機能を果たす学科では、よほどの名門大学でない限り、教員が現場とのコネクションを作っていかなければならない(短大ではなおさらだ)。実習先、就職先との連携も教員が積極的に行わなければならない。
これが実に難しい。実践現場と教育現場にはやはり深い溝がある。溝自体はあって当然だし、(福祉、教育、保育では)実践現場=教育現場になることは絶対にない。実践現場でお世話になる「実習」はあくまでも教育活動の一環であって、労働活動ではない。しかし、現場の職員さんたちは「現場の視点」から学生たちの指導を行ってくれる。それ自体、非常にありがたいことなのだが、僕ら教育者たちの考えとずれることもある。かみあわないこともある。この「ずれ」がやはり一番頭を悩ませる。特に、学校側は、「実習先としての受け入れ」という点で弱い立場にある。学校側と実習受け入れ側は、決して対等ではない。反論したくてもできない。反論でもして、「受け入れません」と言われたら、学校の死活問題となってしまう。
大学教員の使命は、「真理の追究」、「理念/概念への探求」、「常識の懐疑」であり、「社会への適応」、「組織への順応」、「自明性の遵守」ではない。ところが、いわゆる現場は、前者よりも後者を重視しなければならない。簡単に言えば、「よき大人」でなければならない。そうしたよき大人たちから見れば、大学教員は「非社会的」、「非常識」、「理屈っぽい」と思われてしまうし、それは最もなことである。これは、どちらが正しいというのではなく、在り方、考え方の相違に基づいている深い溝なのである。
おそらく他の学科であれば、そうした溝に苦しむことはないだろう。だが、福祉、教育、保育はそうした溝に非常に敏感であるし、常に「実践との結びつき」を考慮しておかなければならないのだ。僕は、子ども大人なので、学生たちに、従順な大人になってもらいたくない、と思いながら日々の実践を行っている。ところが、社会は、やはり従順で適応能力の高い人材を求めている。順応しきれない人間にはとても冷たいのだ。
しかし、大学や短大では、やはり「批判的精神」が貴い価値となっている。「仕事人間」を作るのではなく、やはり「教養人」を育てようとしている(短大は微妙だけど)。決して社会に上手く順応できる人間を育てようとはしていない。もう少しユニバーサルな視点を与えようとしている。少なくても、僕は自己洞察のできる視野の広いコスモポリタンを育てようと思っている。だが、実際の現場(の一部)では、そういう人間ではなく、社会的マナー、一般的常識、従順でエモーショナル(悪い意味で)な精神を持った人を必要としている(みんなが泣く映画を見て、周りにつられて泣く大人とか)。簡単に言ってしまえば、「よい大人」を求めている。
ここからは僕個人の意見だが、僕はそういう「よい大人」に嫌悪しているし、そういう大人に不信を抱いている。空気をうまく読むことだけに生きる大人とは出会いたいとは思わない。(精神的に)自由に生きていない大人とも可能な限り関わりたくない(プライベートでは)。作り笑いも、愛想笑いも、おべっかも、社交辞令も、美辞麗句も、人の信用を得ることとは無関係であろう。少なくとも僕には無用だし、言ってもらいたくはない・・・このように書くと、「まだまだ青いな」と思うかもしれない。けれど、やっぱり嫌なものは嫌。嫌なことでも「好き」と言うほど大人ではない。NoなものはNoなのだ。それが「青い」なら、ずっと青いほうがいい。
『おとなになんかなりたくない』
*一部修正致しました。この問題は難しいです・・・(汗)