Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

『大人になんかなりたくない』

今日は某仕事でいや~な思いをした。

講義や授業で失敗したり、くそ!と思ったり、批判がきたりすることに対しては、あまりいや~な気分にはならない。落ち込むことはあっても、それでなんともいえないいや~な気持ちにはならない。仕事のミスも、凹むけど、それはそれで割り切って頑張れる。

でも、対外交渉でのトラブルはホント気が滅入る。いわゆる「ビジネスライク」の関係は僕にはやっぱり無理。ゲゼルシャフト的な人間関係は、心底できない、というか、したくないという思いが強い。がゆえに、頑張って大学院に行って、大学組織に入った。けれど、僕の教えている科目の性格上、どうしても対外交渉は欠かせない。いわゆる「現場」のサポート無しでは成り立たないからだ。とりわけ、福祉や教育や保育といった現場職のリクルート機能を果たす学科では、よほどの名門大学でない限り、教員が現場とのコネクションを作っていかなければならない(短大ではなおさらだ)。実習先、就職先との連携も教員が積極的に行わなければならない。

これが実に難しい。実践現場と教育現場にはやはり深い溝がある。溝自体はあって当然だし、(福祉、教育、保育では)実践現場=教育現場になることは絶対にない。実践現場でお世話になる「実習」はあくまでも教育活動の一環であって、労働活動ではない。しかし、現場の職員さんたちは「現場の視点」から学生たちの指導を行ってくれる。それ自体、非常にありがたいことなのだが、僕ら教育者たちの考えとずれることもある。かみあわないこともある。この「ずれ」がやはり一番頭を悩ませる。特に、学校側は、「実習先としての受け入れ」という点で弱い立場にある。学校側と実習受け入れ側は、決して対等ではない。反論したくてもできない。反論でもして、「受け入れません」と言われたら、学校の死活問題となってしまう。

大学教員の使命は、「真理の追究」、「理念/概念への探求」、「常識の懐疑」であり、「社会への適応」、「組織への順応」、「自明性の遵守」ではない。ところが、いわゆる現場は、前者よりも後者を重視しなければならない。簡単に言えば、「よき大人」でなければならない。そうしたよき大人たちから見れば、大学教員は「非社会的」、「非常識」、「理屈っぽい」と思われてしまうし、それは最もなことである。これは、どちらが正しいというのではなく、在り方、考え方の相違に基づいている深い溝なのである。

おそらく他の学科であれば、そうした溝に苦しむことはないだろう。だが、福祉、教育、保育はそうした溝に非常に敏感であるし、常に「実践との結びつき」を考慮しておかなければならないのだ。僕は、子ども大人なので、学生たちに、従順な大人になってもらいたくない、と思いながら日々の実践を行っている。ところが、社会は、やはり従順で適応能力の高い人材を求めている。順応しきれない人間にはとても冷たいのだ。

しかし、大学や短大では、やはり「批判的精神」が貴い価値となっている。「仕事人間」を作るのではなく、やはり「教養人」を育てようとしている(短大は微妙だけど)。決して社会に上手く順応できる人間を育てようとはしていない。もう少しユニバーサルな視点を与えようとしている。少なくても、僕は自己洞察のできる視野の広いコスモポリタンを育てようと思っている。だが、実際の現場(の一部)では、そういう人間ではなく、社会的マナー、一般的常識、従順でエモーショナル(悪い意味で)な精神を持った人を必要としている(みんなが泣く映画を見て、周りにつられて泣く大人とか)。簡単に言ってしまえば、「よい大人」を求めている。

ここからは僕個人の意見だが、僕はそういう「よい大人」に嫌悪しているし、そういう大人に不信を抱いている。空気をうまく読むことだけに生きる大人とは出会いたいとは思わない。(精神的に)自由に生きていない大人とも可能な限り関わりたくない(プライベートでは)。作り笑いも、愛想笑いも、おべっかも、社交辞令も、美辞麗句も、人の信用を得ることとは無関係であろう。少なくとも僕には無用だし、言ってもらいたくはない・・・このように書くと、「まだまだ青いな」と思うかもしれない。けれど、やっぱり嫌なものは嫌。嫌なことでも「好き」と言うほど大人ではない。NoなものはNoなのだ。それが「青い」なら、ずっと青いほうがいい。

『おとなになんかなりたくない』

*一部修正致しました。この問題は難しいです・・・(汗)

コメント一覧

kei
ともだちさん

ご無沙汰しています!コメントありがとうございました。医療教育機関のリベートの話はビックリでした。が、同時に納得できる部分もありました。リベートを要求しなければやっていけないほどの状況なのかな?と。。。 

世の中には、概念が好きな人と生の現実が好きな人がいると思います。僕はどっちかというと抽象的世界が好きなので、現実に対して無頓着なところがあると思っています。どっちが大事か?じゃなくて、どっちも大切、そう思いたいですけれど。。設計図がなければ家が建たないけど、作る職人さんがいなければやはり家は建たないっていうことで。。

yukisukeさん

よく理解してくださってますね~ さすがyukisukeさん!! ちょっと表現しにくいところをあえて酒の力を使いつつ書いてみました。まさにおっしゃるとおり、「大多数に押されて信念が折れてしまうようでは、駄目」ということに尽きると思います。保育や福祉って特に、現場で信念が折られて、職を去っていく人が多い職場のように見えます。だからこそ!なんですよね~~

「その子一人に対して、どのようであるのが望ましいかを、第一義的に考え」る、これももちろんとても大切なことなんですが、それ以外に、フランクルを読んだり、批判理論を学んだりして、世界のものの捉え方を学ぶのも大学ならではって感じがするんですよね。。でも、それは今の大学生や短大生にはとても難しいことのようですね。難しいところですよ~~
yukisuke
http://be-blown-off-neworld.269g.net/
お久しぶりです、KEI氏。

ブログ読ませていただきました。

実践と教育。 組織と真理と言い換えますと、組織に馴染む事は大切だと思います。一般的には。

でも、組織だけがいつも良い方向に向かっているわけではないですよね?
個人が悪い方向に向かっているわけではないですよね?

そこに存在するものは、やはり真理の探究だと思います。

教育者は、専門知識についての追求をします。
実践者は、教育者から得た専門知識を、組織での中でどのように動いていくかを追求するものだと感じています。

それを組織という中で、大多数に押されて信念が折れてしまうようでは、駄目だとKEI氏は語っていると、私は解釈しています。

特に保育、福祉では「個人対個人」なので「組織対人」では無いはずです。

そこで「組織」自体が間違っている方向に進んでいたら、少数派の人がそれを覆すしかありません。その際に感情と信念のぶつかり合いは必要なのではないでしょうか?

国会や政治ではないので、無駄な弁論術は必要ではありませんし、言いくるめる等はもってのほかだと、稚拙ですが現場で感じています。それよりも、目の前に居る子供たち、顧客に良い方向とは?と本音で議論する方が有益と思います。

その子一人に対して、どのようであるのが望ましいかを、第一義的に考え、その上で組織がどのように動いていくかが重要ではないのかと考えています。

それが、保育、福祉、大学などの教育機関の姿ではないのでしょうか?

大学では一般常識を教えるのではなく、専門知識を得て、正否の判断を獲得するために行くべき場所だと考えています。

間違いや、アドバイスありましたら、頂けると嬉しく思います。









ともだち
ちょっと話が違うけど
この間、とある医療教育機関(どちらかというと福祉に近い)に営業にいったら、担当者がリベートを要求してきてね。
自分の会社にも相談して、今回は自分たちの利益の方が大きいので相手の要求に応えたのですが、なんだかな~という気分になりました。
私は初めてだったのですが、こういうのって、本当にあるのですね。
同僚に聞いたら、よくあることみたいです。
あいつら人間のクズだよなと、今回は同僚と笑い合いましたけどね(笑)

人の良し悪しは、小難しい概念の中だけでなく、もっと単純な生活の中にもあるように思います。
kei
aloneさん

手厳しいコメントありがとうございます。もしこれを読んで不快な思いをさせてしまったのならば、お詫び申し上げます。

この文章は「信念」にかかわるもので、個々人の生き方に接触するものだと思います。なので、個々のコメントに対してコメントすることは控えさせていただきます。

aloneさんの伝えたいことは(自分なりに)理解できます。共感する部分もあります。

ただ、大学や短大といった教育機関はどのような方向に向かえばいいのか、迷っているのが現状です。教員自身が組織に順応するかどうかは別として、順応させる教育を行うべき場所かどうか、という問題です。もしaloneさんが大学の教員だとしたら、「批判精神」と「順応する教育」、どちらに力を入れますか。教師を育てるとしたら、学校組織に上手く順応する教師と、学校組織に対してたえず批判的に捉え返す教師、どちらを育てたいと思いますか? 

教育は難しいです。組織(学校)に順応するということは、子どもが組織にとって都合の悪いことをしないように監視する、ということになります。逆に、子どもを第一に考えると、組織と対立することになります(教育ドラマでよくある光景です)。

現在の教師は、非常に従順で、体制にとって都合の良い状況になっています(教育基本法に反対する教師の運動はほとんどみられません)。デモも起きません。制度に対してとても素直になってきているように見えます。

きっと企業も同じような状況下にあるんじゃないでしょうか。労働組合の力は現在どれほどなのでしょう?真面目な社員ほどうつ病など深刻な状況に置かれています。そんなに順応しなくてもいいのに・・と思う人も周りにたくさんいます。しかも、現代社会では、言われたことを言われたとおりにするだけじゃなくて、自分なりに自分の責任で動けるような人材を必要としているのではないでしょうか?

個人の生き方は人それぞれです。「私は社会的マナーや一般常識を持っているつもりの人間ですが、だからと言って精神的に不自由を感じたことはあまりありません」とおっしゃるaloneさんの言葉をお借りすれば、その感じ方は人それぞれです。しかし、教育(教育だけじゃないと思いますが)は、その考えをただ子どもに教えたり、叩き込んだりすることではないはずです。教師自身がそのつど自分で考え、自分で判断し、たとえそれが組織にとって都合の悪いことであっても、貫かなければならないと思うんです。

さらに、教育や保育や福祉は、政治と密接につながっています。経済というよりは政治です。従順な人間を作ることが大学の使命なのかどうか。。。aloneさんはどのようにお考えになりますか?

(現在の大学、短大の学生はとても従順で素直です。大学生、短大生になっても教員の顔をうかがう学生も多いんです。僕は、僕(教員)をしっかり批判できる学生を育てたいと思っています。もちろん筋の通らないことがあればこっちもガチンコで対応しています。ぶつかり合いを恐れるのではなく、ぶつかっていける大人になってもらいたいと願っています)

ちょっと話がずれてしまったかもしれませんが、組織や社会に順応することが悪いのではなく、そうした順応の仕方を教えることが高等教育の使命なのかどうかを問いたかったのです。またご意見を聴かせていただけると嬉しいです。

alone
こんにちは。

いつも楽しく拝見させていただいておりましたが、今回の記事には正直とても残念です。大学教育が何の役にも立たない理由を垣間見た気がします。


>大学教員の使命は、「真理の追究」、「理念/概念への探求」、「常識の懐疑」であり、「社会への適応」、「組織への順応」、「自明性の遵守」ではない。

これらを対立概念として捉えていること自体、大きな間違いであると私は考えます。社会とは「人と人との関係」です。人間が2人いればそれは既に「社会」です。すなわち当然大学も「社会」である筈です(人が1人しか居ない大学というものが存在していれば話は別ですが)。つまり、例え大学教員であろうと「社会へ適応」し、「組織に順応」することは当然必要です。その上で「真理の追究」なり「理念の探求」なりすべきでしょう。大学教員だからといって非常識で良いという理由にはなりません。


>社会的マナー、一般的常識、従順でエモーショナル(悪い意味で)な精神を持った人

これらをひと括りにすることも間違いでしょう。社会マナーや一般常識、またそれらに従うことは社会で生きていく上で確かに求められるものです。しかしエモーショナルな点についてはあくまで個人の感性の問題であって社会が必要としていることではありません。みんなが感動する映画で一緒に泣こうが泣くまいが個人の自由です。私は映画を観て泣いたことなど1度たりとてありませんが、それで問題が起きたことも1度たりとてありません。


>僕はそういう「よい大人」に嫌悪しているし、そういう大人に不信を抱いている。ロックな人間だからかもしれないが、そういうずるがしこくてしたたかな大人を好きではない。

社会的マナーや一般常識を持っている人間がイコール「ずるがしこくてしたたか」になる理由がよく分からないのですが。

それから「ロック」を逃げ道に使うこともどうかと思います。確かにロッカーは一般の社会人と比べるといささか非常識なところがあるのも確かです。ですがそれはあくまで度合いの問題です。彼らにしたって車は道路の左側を走りますし外国へ行けばイミグレーションチェックは受けます。本当にマナーや常識を持たないロッカーなんて(少なくともプロの中には)いません。だいたい常識が何か分からない人間に非常識な歌は歌えないと思います。


>(精神的に)自由に生きていない大人も僕は嫌悪する。

私は社会的マナーや一般常識を持っているつもりの人間ですが、だからと言って精神的に不自由を感じたことはあまりありません。確かに色々なしがらみはあります。ですがそれらをすべて振り払うのであれば本当の意味で1人になるしかありません。会社やお金は勿論、家族や友人も捨てて。本当の自由とは「完全なる孤独」以外にありえません。


>いわゆる「ビジネスライク」の関係は僕にはやっぱり無理。ゲゼルシャフト的な人間関係は、心底できない、というか、したくないという思いが強い。がゆえに、頑張って大学院に行って、大学組織に入った。

あなたの言う「社会」に出たことの無い、学校機関以外の社会を知らない人間が社会を語る・批判するなどしたところで説得力の欠片もありません。一般的なイメージばかりの机上の空論でしかありません。そんなものに囚われていること自体がロックでは無いですね。


最後に。私はあなたの言うところの「よい大人」なのかもしれませんが、ロックは大好きですし(そもそも私もV系が好きでこちらのブログを読ませていただくようになりました)、気持ちの上ではあくまで自分はロックンローラーだと思っています。サラリーマンって結構ロックンロールな商売ですよ。
kei
招き猫さん

親切なコメントありがとうございます。

僕も「悲しい現実」は理解していますし、自分自身、その悲しい現実を生きています。けれど、それを教育現場に持ち込んでいいのかどうか? 学校(スクール)の語源は、「閑暇」で、現実社会(大人社会)からの遠ざかり、が語源的意味です。社会で必要なことは社会に出てからでも充分学べると思います(僕もお恥ずかしながら、28で社会に出て、今もなおソーシャルスキルの勉強中です)。でも、学生時代はそんなことを考えずに、「真理」を探していました。で、自分なりに「真理」の断片を見て、社会に出ました。

だから、学生たちには、できるだけ社会的価値(外の価値観)を押し付けないでいたいんですよね。価値を決めるのは、最終的には(社会に出ようと出まいと)自分自身。外の評価に従属するのではなく、自分自身の価値の決定、自分の選択、そういう自分を創ってもらいたいんですよね。。

招き猫さんのご指摘は、社会人としてはとてもよく理解できるし、すごく大切なことだと思います。ただそれを学校で教えるべきことなのかどうか。。。大学や短大といった高等教育機関ですべきことなのかどうか。。。(教育や福祉の世界ではそれが強く求められているんですね)。

たとえば、経済学で、学問的背景や先行研究などのバックグランドなしに、「経済界の現場」だけを教えていたら、それは経済学部ではないですよね。経済界のマナーやルールやハウツーは、経済界に入って学んでいくものだと思うんです。それは政治学もしかりでしょう。そこの線引きが「人間諸科学」の場合はとても難しいんだと思いますが、いかがですか?看護学も広く見れば「人間学」だと思うのですが・・・

ONとOFFの話にはとても共感しました!「単なる私」、ホント、大事だと思いました。僕も仕事以外ではただのV系オタク、ラーメンマニア、ロッテキチガイ、ドイツマニアですからね~~ 職場でもあきれられるほどに・・・(笑)
招き猫
難しい問題ですね
私は子供の頃から冷めていたところがあって、客観的に物をみる癖がありました。
大人からすれば「子供らしくない子供」だったんでしょうけど、きっと扱いやすかったと思います。
反面、他と同じことをするのが嫌いで団体行動は苦手でした。
遠足・修学旅行・・・結構苦痛でしたね。

自分が大人になって教える立場になり、社会の中で生活していくためには多少の順応性は必要だと思うようになりました。
団体の中で動く以上、ある程度は「右へならえ」的な要素も必要かな・・・


私が教えていた時に、生徒に必ず言っていたことがあります。
「自分が相手だったらどう思うか」
「相手の言葉だけでなく全身から気持ちを読んでごらん」
それ以外は多くを求めない教員でしたね。
(教員に不向きだったのかも・・・)


生きていくということ・・・
無人島で一人っきりなら自分の思うままにでいいと思います。
誰に迷惑をかけることもなく、誰に気兼ねすることもなく生きていけますから。
でも、現実として社会の中で「一人の労働者」として生きていくためには社交辞令や愛想笑いも必要になってくるんですよね・・・悲しい現実です。

生きていかなきゃいけないけど、我慢ばかりする人生なんてつまらない。
だったらONとOFFを使い分ければいいんじゃないでしょうか?
私は仕事を離れたら、職場の人間とは出来るだけ会わないようにしてます。
一緒に食事するとか、一緒に出かけるとかしません。
OFFの時は「看護師の私」ではなく「単なる私」で居たいから。
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