僕は、エーリッヒ・フロムをずっと尊敬してきたし、これからもフロムの影響は自分の中で大切にしておきたい。
そんなフロムの考えの中で、僕が一番好きなもののひとつが、「自己愛」と「利己主義(エゴイズム)」の区別だ。
それについては、このブログでも結構書いているので、ま、おいておいて。
…
この自己愛と利己主義の区別に近い分類を、ルソーも実はしていた。
以下、引用しておく。
注一五●利己愛と自己愛の違いについて
利己愛(アムール・プロープル)と自己愛(アムール・ド・ソワ)を混同してはならない。この二つの情念は、その性格においても、その効果においても、きわめて異なるものなのである。
自己愛は自然な感情であり、すべての動物たちはこの自己愛のために自己保存に留意するようになる。人間においては、理性に導かれ、憐れみの情によって姿を変えられることを通じて、自己愛から人間愛と美徳が生まれる。
これにたいして利己愛は、社会の中で生まれる相対的で人為的な感情である。それぞれの個人はこの感情のために自分をほかの誰よりも尊重するようになる。そして人々はこの感情のために他者にあらゆる悪をなすことを思いつくのであり、さらに名誉心の真の源泉でもある。
このことを確認したうえで、ここで検討している原初の状態、真の意洙での自然状態では、利己愛は存在しないことを指摘しておきたい。この状態では誰もが一人の個人であり、自分を観察する見物人は自分しかいない、宇宙において自分に関心を寄せるのは自分しかいない、自分の価値を評価する判定者は自分しかいないと考えているのである。
利己愛は、自分の力のおよばないものとの比較から生まれるものであり。このような感情が野生人の魂のうちに芽生えるとは考えられない。
同じ理由から野生人は、憎悪の感情も復讐の欲望も抱くことはないだろう。こうした情念は、自分が侮辱されたという判断なしには生まれないものなのだ。侮辱されたという判断の原因となるのは、実際に加えられた危害ではなく、軽蔑されたという感情であり、危害を与えようとする意図である。だからみすがらを評価する方法を知らず、自分を他人と比較することも知らない
人間たちは、それによって何らかの利益がえられるならば、たがいに暴力を振るいあうことはあるかもしれないが、たがいに侮辱しあうことは決してない。要するに、野生人はほかの同胞を、別の種の動物と同じまなざしでしか眺めることがないのである。弱い相手から獲物を奪ったり、強い相手には自分の獲物を献上したりすることはあるだろうが、こうした略奪行為を、自然の出来事としかみなさないのである。だからそのことで驕ったり、恨みに思ったりすることもないのである。それが成功したときには喜び、失敗したときにはがっかりするだけで、とくにほかの情念を抱くことはないのである。
中山元訳●光文社
自己愛と利己愛(エゴイズム)を、自然状態という観点から語っているところが、実にルソーらしい。
自己愛を健全にしっかりと育むならば、人間愛が生まれる、と。しかし、自己愛がしっかりと育つ前に、それが利己愛にすり替わってしまうならば、人間愛には至らず、憎悪や復讐の欲望を抱くようになり、侮辱し合うようになる、と。
小さい頃から、他者との比較に晒されて育つ子どもは、自己を相対的に見るように教育され、やがて、利己愛の塊となっていく。逆に、小さい頃から、自分の価値を自分で決めるように教育された子どもは、己の自然な自己愛を育み、そして、理性に導かれ、人間愛と美徳を得ていく。
世の親たちは、よほど注意していなければ、他の子どもと比較をして、相対的に子どもを見てしまう。そうすることで、子どもは自己愛ではなく、利己愛を強めていくことになり、人間愛を獲得できなくなってしまう。
こんな時代だからこそ、ルソーの『人間不平等起源論』を読みたいところだ。