今度訳してみたいなぁと思う本が、『親業』(Elternarbeit)という本だ。2001年に出された本で、ドイツでは結構売れている本・・・のようだ。
著者はハンス・ドゥゾルトさん。家族セラピーや家族心理学などを専門にしている人で、長いこと障害児施設や養護学校などで働いてきた人だ。彼はまたミュンヘンで、親、児童、青年、家族に関するカウンセリング業務も行っている。
その本の第一部をちょっと翻訳してみた。ちょこっとずつ訳していきたいな、と。
第一部 親業―意味と概念
教育学の中心に子どもがいる。幼稚園であれ、学校であれ、学童保育であれ、養護施設であれ、常にそこでは、子どもを養護し、その発達段階において子どもを支援し、子どもに知識を伝達することが問題となっている。昨年行った教師たちとのたくさんの議論の中で、私は、彼らの多くがこのような課題に関して過度の要求がなされていると感じている、ということを知ることができた。―これはどうしてなのだろうか?
今日の教師たちは、確かに、以前の教師よりも、高度な専門技術を有しているし、モチベーションも決して低いわけではない―。逆に、個人的に強く責任を感じている最も高度な専門的知識を有した教師たちこそ、自分の仕事の意味を最も強く疑問視しているのだ、と私は確信している。
彼らは言う。子どもたちはますます難しくなってきている、と。以前のクラス学級では、すべての子どものおおよそ10パーセントの子どもしか目立った行動を起こしていなかったが、今日ではすでに30パーセントから50パーセントの子どもがそうした目立った行動を起こしている、と。そして、今あるクラスの規模だと、個々の子どもたち全員の要求や困難に応じて対応することはもはや不可能である、と言うのだ。
こうした教師たちの報告は、ほとんどいつも子どもの両親への嘆きと結びついている。両親は子どもをきちんと教育していないし、子どもの世話もロクにしていない、また特に負担となる家族の諸制限を子どもに課している、と。このとき、ときおり明示的・非明示的に、「教師たちの教育的働きかけが効果なしだったり、それどころかイライラするものであったりしたならば、それは親の責任だ」、という批難の声が同時に響いているのだ。
いずれにせよ、子どもの家族の状況によって子どもの態度の大部分が作られているというのはまさにその通りである。また、そうしたことが教育機関での勉強に対する直接的な影響を与えている、ということを真剣に疑う人はいないだろう。無論、ここ数年、この十年の間に、社会的な条件、それと共に教育的な条件は根本的に変わってしまったということも考慮しなければならない。私は、幼稚園に基づいて、典型となるよう、社会的・家族的な発展に依拠している教育機関がどのような変化を受けているのかを手短に浮き彫りにしたい。
以前も今日も、幼稚園の本質的な意味は当然ながらその養護機能にある。生活維持コストは上昇し、多くの家族で両親が共働きしているという事実に直面している。近代的な小家族では、通常、両親それ自体を除くと、他の家族の大人の構成員と自由にかかわれないという状況にある。その中で、就学前の子どもの家族の外での養護の必要性は増してきた。
だが今日では、この養護機能と別に、より根本的な別の諸機能がますます施設化された就学前教育に与えられつつある。
通例としての小家族、特に都市部の住宅環境、またすでに地方の住宅環境における匿名性(希薄な人間関係)、ならびに、一人で養育する片親と子どもから成り立つ小家族の増大、これらすべてのことが、子どもに、地域社会の一部としておのれを理解させることをますます難しくさせている。子どもたちは、もっぱら大人の教育-さらには片方の親からのみというケースも頻繁である-を通じて自分を定義づけることを学ぶ。そして、それと共に子どもたちは、大人によって指し示された役割を内面化するのである。例えば、「王子様」、「王女様」の役割、「手のかかる子」としての役割、それどころか「スケープゴート(身代わり)」の役割などがある(vgl.Richter.1967)。
それと並んで、同属集団-兄弟姉妹、同年齢の近所の子どもたち-を知る機会はほとんど与えられていない。こうしたことから、就学前教育には本質的な社会化機能が与えられているのである。通常、幼稚園は子どもの人生において、同年齢・同属集団の一部として自らを理解する最初の場なのである。そこで子どもはあらゆる拘束力をもった規則として、同年齢の子との衝突を体験し、学び、そしてそうした衝突を乗り越えることを知るのである。