Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

エレンケイを読みなおす(1)


僕の『教育・福祉の思想』にとって、最も重要な人物の一人が、エレン・ケイ(key,Ellen.1849-1926)である。僕のハンドルネームkeiの由来となっている人物でもある。彼女の代表作、『児童の世紀』(初版1900年、第二版1913年、第三版1927年)は、ご承知のとおり、大ヒットし、世界各国で翻訳され、世界中の人に読まれた作品である。教育学や保育学の領域で、彼女の名前が出ないことはない。公立の教師や保育士を目指す人は、ケイの名前は絶対暗記!という程である。

だが、現在の教育学・保育学領域の大学・短大で、彼女の作品はどれほど丁寧に紹介されているだろうか。教育学出身の学生で、彼女の『児童の世紀』を読んだ学生はどれほどいるだろうか。(*これは、何もエレンケイに限らない。ロックやルソーやフレーベルやペスタロッチやコメニウス、さらには、ヘルバルトやデューイ、日本では、堀尾輝久や勝田守一や宗像誠也や斉藤喜博など、教育の理論と実践を包括するような「教育の達人達」の文献を読もうと憤慨する学生はどれほどいることか)

エレン・ケイは、従来の体罰(打ちゃく:ちょうちゃく)型の「旧教育」を批判すると共に、リベラルなフェミニズム(家庭を顧みない女性)をも批判する。また、彼女は、遺伝学や優生学の見地から、「家庭教育」を主張した人物であった。親や教師への啓蒙も鋭く、彼女の論は今なお色褪せない何かを持っているように思う。例えば、体罰や打ちゃくを批判するかわりに、別の方法(オルタナティブ)として、次のような例を挙げている。

「危険については、もしも子どもにあらかじめ恐ろしいことを知らせておきたいのなら、そのもの自体の恐ろしさを体験させなければならない。なぜなら、たとえ母親が、蝋燭に触れたからといって子どもをぶっても、母親の留守のとき子どもは蝋燭に触れるであろう。しかし、子どもに蝋燭の熱さを思い知らせておけば、後で触れるようなことはしない」(小野寺訳、pp.156-157)

エレン・ケイは、「子どもへの直接的な体罰」によって教育することを目指すのではなく、「蝋燭の熱さ」に焦点を合わせることで教育することを目指すのである。ここは非常にユニークなところだと思う。エレンケイは、子どもを教育の中心に置くのではなく、子どもを取り巻く環境を教育の中心に置くのである。これは、次の彼女の考えにも合致する。

「今日の親は、子どもの生活に干渉する努力を百分の一だけにとどめ、残りの百分の九十九を干渉でなく目立たない指導のために使用すべきである」(p.146)

ここでケイが主張する「目立たない指導」は、おそらく、「子どもへの干渉」よりも難しく、時間がかかり、頭も使わねばならぬことであろう。「干渉」は、どんな人間でもたやすくできる。「体罰(打ちゃく)」は(大人、子ども双方にとって)最も単純で分かりやすい。大人側からすれば、「干渉」や「体罰」は、とても簡単で、シンプルで、何の知性も使わずに、自明の価値観に則って手軽にできる「教育方法」であるに違いない。だが、「蝋燭の熱さ」などに示される「目立たない指導」は、大人の世界認識や深い洞察によってのみ可能となるもので、干渉や体罰よりも、骨の折れるたいへんな作業であろう。ケイは、この指導を親に求めているが、現代の家庭環境を考えると非現実な要求のようにも思える。むしろ、初等教育や保育にかかわる実践者たちへの要求と捉えたほうが現実的であろう。

子どもに焦点を合わせるのではなく、子どもが焦点を合わせているものに大人も共に関与する。子どもとの関係に気を配るだけでなく、子どもが関係しようとしている事物との(実践者の)関係にも気を配る。そういう事象的な関係性(事物との関係性)という視点は、100年以上前の主張ではあるが、今なお新しい視点として生き続けているのではないだろうか。

子どもを焦点化・対象化して、じろじろ見ることは控えよう

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