今日の講義のメモ。
「暴力」について、色々と考えてみました。
最近、講義メモは、アフォリズム的に、散文的に書くのにはまってます。
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●いじめも虐待もDVも遺棄・殺害も、「暴力行為」と見なすことができる。
●暴力とは何か。暴力について、僕らは何をどう語れるだろうか。
●一般的に、暴力は、「嫌悪(hate)」と「快楽(pleasure)」を伴っている。
●敵、つまり、嫌いな人間や憎い人間に対して、身体的な攻撃を加えることそれ自体は、極めて動物的であるし、生物的な存在である人間としては、それほど異常なことではない。動物の世界は、「食べる」「食べられる」の関係にあり、敵は、食べる存在か、あるいは、食われる存在である。
●また、暴力が快楽になる、ということも日常的に理解できるだろう。子どもたちも、アリやミミズを殺して、楽しんでいる。TVゲームで誰かを倒した時の喜びはとても大きい。リストカットも、多くの研究で、快楽を引き起こしていることが明らかにされている。暴力は、それ自体、人を魅了する力をもっている。また、レイプもまた、(決して許される行為ではないが)暴力と快楽の連関の内にあるものであろう。
●この直接的な、身体的な暴力を回避するために、言葉の暴力が使われる。動物とは異なり、言語をもつ人間は、身体的暴力を回避するために、言葉の暴力を使うことができる。悪口は、その一つの武器であろう。言葉で攻撃することで、相手を追いつめることはできる。Hip hopの世界のディスり合いは、その一つのゲーム(遊び)だろう。
●言葉の暴力で、人は、相手の全人格を否定し、そして、相手を死に追い詰めることができる。言葉の暴力は、身体的暴力以上に、強烈な作用を及ぼし得る。言葉の暴力に苦しみ、自殺へと誘導するいじめは、たしかにある。DVにおいても、言葉による暴力に恐怖を覚え、追い詰められる被害者は確認される。
●と、同時に、暴力的な言葉もまた、人を魅了する。汚い言葉や、醜い言葉は、それ自体、人を熱狂させ、そして、人を酔わせてくれる。
●だが、こうした個々人の身体的・言語的暴力とは、全く異なる次元の暴力がある。人間の知性が一気に開花した「近代」において、顕在化された、想像を絶する暴力がある。
●その究極の事例が、第二次世界大戦下で行われたユダヤ人の「絶滅」(Vernichtung)である。アウシュヴィッツ絶滅強制収容所で行われた暴力は、僕らが知る暴力とは、数も規模もスケールも何もかも違い過ぎる。一般に、こうした暴力は、「ジェノサイド」「ショア」「ホロコースト」と呼ばれる。1915年には、現トルコで、「アルメニア人虐殺」が起こっている。この時、100万人を超えるアルメニア人の殺害が(計画的に)行われた。
●さらに、僕ら日本人は、広島、長崎の「原子爆弾」を知っている。一発の爆弾で、14万人(広島)、8万人(長崎)が瞬時に亡くなり、その後も被ばくで多くの人が死亡している。この原子爆弾を開発したのは、ドイツから移民してきたユダヤ人家庭に生まれたオッペンハイマー(Oppenheimer)だった。欧州(特に東欧)で嫌悪され、その欧州から追い出されたユダヤ人の一人であるオッペンハイマーが開発した原子爆弾により、広島と長崎の一般市民が何十万人も殺された、ということになる。ユダヤ人と日本人の悲しい連関と言えなくもない。
●このように、暴力には、個々人間の暴力とは別に、近代的な暴力がある。この暴力もまた、個々人の「嫌悪」(ヘイト)に基づいているが、個々人の心情に基づく嫌悪とは異なり、社会環境や教育によって形成される嫌悪である(日本においても、今なお、ヘイトスピーチが繰り返されており、ようやく「規制」に入ろうとしている)。特定の人種や民族への嫌悪は、(例外もあるだろうが)その個々人の個別的なネガティブな経験に基づいていない。
●近代的な暴力は、原始的な暴力とは異なる何かをもっている。原始的な暴力よりも、よりドライで、冷酷で、残酷で、より広域的である。そして、「理性的」に、相手(集団)を抹殺する。
●戦後の世界的に有名な社会学者・思想家のアドルノは、「アウシュヴィッツ以後、誌を書くことは野蛮である」、という有名なフレーズを残している。「詩を書くこと」は、一つの文化的活動であり、一つの理性的行為である。そんな文化活動が、野蛮である、とはどういうことか。暴力的行為は、明らかに野蛮である。その反対にあるものが、通常、文化活動である。にもかかわらず、アドルノは、文化活動こそが野蛮である、という。
●(当時)文化的に最も成熟していたと思われるドイツで、かのアウシュヴィッツの悲劇が起こった。理性的であることの暴力性が、ここで顕在化されたのである。人間の理性をフルに発動させる文化活動の「野蛮」を、アドルノは警告する。(とはいえ、その野蛮と向き合うための努力もやはり理性的に行わなければいけないのだが…)
●いずれにせよ、僕らは、一般的にいう「暴力」とは別の暴力=理性的暴力(?)の前に立たされている。喧嘩が、一般に言う暴力であれば、クラス全体で一人の人間をいわば組織的に、かつ冷静に、冷淡に殺していく営みが、最も野蛮ないじめと言えるだろう。否、そもそも、国家の命令の下で、すべての子どもが強制的に学校に行かなければならないこと自体が、(教育を受ける権利を守っている一方で)理性的な暴力と言えなくもない。DVも決して許されることではないが、「婚姻届」を提出しなければいけないことや、「結婚制度」に屈しなければならないこともまた、暴力的なことかもしれない。
●赤ちゃんポストは、まさにそうした近代的な暴力を生み出す根っこを絶とうとする試みと言えるかもしれない。事実、赤ちゃんポストは、アウシュヴィッツ以後の教育(=平和教育)の営みの中で生まれたものであり、その赤ちゃんポストを作った人は、アドルノの影響を強く受け、「過去の総括」を教育的な文脈で理論的・実践的に考えていた教育学者・社会学者だった。
<続く>
暴力とは何か。
ただ、単に「暴力はいけない」、というだけでは、何も思考したことにはなりません。
戦争と同じかな!?
「戦争はよくない!」と叫んだところで、なくなるわけではありません。
なぜ、暴力が、戦争が起こるのか、そのメカニズムを明らかにすることが必須だろう、と思います。
そして、
「なぜ暴力が起こってしまうのか」、「それを起こさせないためにどうすべきか」。
それは、そのまま、DVや虐待にも通用する問いになるのかな、と。