Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

恋愛交差点9 -「Beの愛」の真諦-

不定期連載<恋愛交差点>、そのpart9★

今回は、「Beの愛」の真諦について。

Beの愛について、少しフロムの発言に沿って、語ってみました。

今回は、特に「西洋思想」の文脈の中で、Beの愛について考えてみました。


Beの様態は、能動的であり、生産的であることである。

フロムは、「自分の人間的な力を生産的に使用するという、内面的能動性」(p.126)と書いている。ゆえに、Beの愛もまた、能動的であり、生産的でなければならない。

では、能動的に愛すること、生産的に愛すること、それはいったいどういうことなのだろうか。自分の人間的な力を誰かのために生産的に使用する、とはどういうことだろうか。

フロムは、このBeの様態について、次の三つの視点を提示している。すなわち、①独立、②自由、③批判的理性である。Beの愛を生きる人は、独立(=自立・自律)しており、誰にも支配されていないという意味で自由であり、そして、批判的理性をもっている、ということになる。

これは、まさに、近代の西洋的な人間の「モデル」と言えるだろう。フロムの恋愛観は、ある意味で、近代西洋の「典型」であるとも言える。

当然ながら、近代的な家族もまた、この理想的な人間モデルを前提に構成されている。父も母も、共に独立しており、自由であり、共に批判的理性を持ち合わせていることが、前提となっている。もしかしたら、「一夫一婦制」というのは、そうした近代的な人間モデルを体得した人以外には馴染まない制度なのかもしれない。

***

このBeの愛の逆を語れば、Haveの愛がより深く見えてくるだろう。

独立していない人は、誰かに依存している。誰かに依存している人は、自らの意志で行動することができない。誰かの顔色を窺っている。<見る立場>には立っておらず、<見られること>を強く意識するので、受動的である。受動的に生きている。だから、誰かを愛することではなく、誰かに愛されることに執着する。また、恋人ができても、誰かに依存しているので、その恋人が他者にどう評価されるのかを意識する。「されること」に己の価値を見いだしている。

自由でない人は、当然ながら、相手の自由も認めない。前近代的な男女や家族は、互いに(あるいは共同体的に)自由を制約し合うことで成り立っていた(今もそういう男女や家族があることは否めない)。自由な人は、誰かの意志に従うのではなく、自らの意思に従う。「should(第三者の意思)」ではなく「must(己の意思)」に基づいて行動できる人である。「相手に愛されているから」ではなく、「自分が愛するべきだと思うから」、その人を愛するのである。「自由意思=free will」は、近代的な思想そのものである。

批判的理性を持ち合わせていない人は、自分に対して無批判的であるがゆえに、自分の欲望や欲求に流されてしまう。そのつど、そのつどの自分の感情に支配されてしまう。誰かに依存したり、誰かに支配されたりしているのみならず、自らに依存し、自らに支配されているのである。愛するか愛さないかもまた、自分の気持ち次第、ということになる。自分の気持ち=感情=欲望=欲求で恋愛している人は、すべてHaveの愛であった。

***

これらの見解をまとめると、Beの愛とは、他人からも自分自身からも自由であり、他人にも自分自身にも依存しておらず、自分のSollen(当為=must=自らの意思において「すべきである」と思うこと)に基づいて、誰かのために生産的な行いを為すこと」、となる。

こうしたフロムのいうBeの愛が、われわれに実現可能なのかは分からない。とりわけ日本人であるわれわれは、「独立」も「自由」も「批判的理性」もまだまだ十分に持ち合わせていないように思われる。のみならず、当の西洋においても、こうした理念が実際の人間に実現可能なのかも、疑わしくなっている。

ただ、われわれも、そういうBeの愛を生きた人・生きている人を知っている。「自分の人間的な力を誰かのために生産的に使用している人」を知っている。自分のために誰かを愛するのではなく、相手のために相手を愛する人を知っている。利己的な人間がはびこる中で、利他的な人間がいることも知っている。ゆえに、全ての人に実現可能かは別としても、人間において可能であることであることは間違いない。

しかも、この理念は、現行の教育基本法においても確認することができる。

→「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う

→「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する

幼児教育もまた、「生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」であり、そこで想定されているのは、独立し、自由であり、批判的理性の土台の形成であると言える。ゆえに、Beの愛=Beの様態は、教育に携わる全ての人の「理念」であるとも言えるだろう。

***

…とはいえ、、、

独立、自由、批判的理性…

どの言葉も、今の時代となっては、「しらじらしさ」さえ感じる言葉になってしまっているのではないだろうか。自由を求め、批判的理性を働かせることに、現代を生きるわれわれはどれだけ信頼を置いているだろうか。「自由なんて、絵に描いた餅に過ぎない。そんなものを求める時間があったら、働け!」、と。そう言われそうな気がしてならない。さらに、「Beの愛なんて要らないんだよ。Haveが大事なの。もっているものをもってなきゃ、どうにもならないの」って…それが、現代の風潮のような気がしてならない。

けれども、それでも、僕らはこの理念を大事にすることもかろうじて意識している。

恋愛には、訓練が必要だ、とフロムは主張している。

その辺のことはまた、別の機会に…。

 

PS

●きっと「家族支援」というのも、Beの愛の実践なんだろうな、と思う。独立していて、自由で、批判的理性を持ち合わせた人は、きっと子育てに躓くことはないだろう。どんな人でも子育てに苦悩はすると思うが、「虐待」や「殺害」に代表されるような恐ろしい事態には陥らないだろう…

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