あっという間に、二週間が過ぎてしまいました。
最初はスイス。
そして、ドイツへ。
この二週間、本当に本当に濃い二週間でした。
そして、本当に本当にハードでした(;;)
一日もホテルにこもれる日がなくて、、、
(なので、このブログも中盤から後半にかけて、ラーメン以外の記事は全く書けませんでした…)
でも、その分、たくさんの人と「対話」して、そして、今後の「課題」をいっぱい見つけました。
帰国したら、今回の調査の成果を色んな所で発表したいと思います。
一つ言えることは、「赤ちゃんポスト」は絶対にもっと必要だ、ということ。
シュテルニパルクのゲーテ通り幼稚園の園長先生が言っていました。
「日本では、21週まで中絶することが合法で、赤ちゃんの命を救う赤ちゃんポストは合法じゃない!? それって、おかしくない?」、と。
ドイツでは、12週までしか中絶ができません。もちろん、中絶するためには、妊娠葛藤相談所の「許可書」が必要で、それを得るのも決して簡単ではありません。あと、もっと驚いたのは、「出生前診断」の「陽性反応」による中絶は「非合法」だということです。日本では、「障害」ゆえの「中絶」が容認?されていますが、ドイツでは絶対に許されない、と。当然だ…。と、思うけど、日本では、出生前診断による「堕胎」が、無批判で行われているんです。どうなってんだ、日本は…(と思ったり…)
命に対して、どこまでも「鈍感」になっているのかもしれない…
ライラも行ってました。「日本にも、もっと勇敢な人が出て来てほしい」、と。
そこなんだよ、、、
「日本に欠けているもの」が今回、はっきりと見えてきた気がしました。
さて、、、
2017年夏の訪欧の旅の後半戦は、怒涛の訪問巡り。。。
まずは、リューベックの「アガペーの家」に行きました。
リューベックといえば、これ。
まさか、僕の人生で、ここまでリューベックが近い存在になるとは、、、
思ってもみませんでした。
今回の訪問の目的の一つが、来年のシンポジウムの「交渉」でした。
ガルベさんから、「OK」のサインが出ました(;;)
来年、遂にガルベさん、来日です。
(ただ、色々と大変なので、最後までどうなるか分かりませんが…)
「日本のBabyklappeは、是非とも見たいわ」、と言っていました。
アガペーの家のガルベさんたちとパシャっと。
今回は、ドイツのデュッセルドルフで働いている元教え子のSさんも一緒に♪
今回のこの訪問については、きっと遠くない将来、何らかの形で公表されるでしょう(!?)。
2017年の夏、今も第二の赤ちゃんポストは健在でした。
また、ここで生活している母子にも、お話を聞くことができました。
もっともっと、母子支援施設は増えるべきだ、と改めて思いました。
僕もいつか、絶対に緊急下の妊婦や母子のための施設を作るぞ、と心に決めました。
「内密出産」についても、色々とお話を聞くことができました。
翌日はベルリンへ。
ベルリンの「デボラの家」を訪問しました。
色々あって、写真はありません…(・_・;)
シスターモニカさんとは、一年ぶりの再会です。
今回は、「今、モニカさんが支援している母子」について話をじっくり聞いてきました。
一番びっくりしたのは、8人の子どもを遺棄?(殺害)した母親のその後のことでした。
日本でもし母親が8人の子どもを殺したら、おそらくは「死刑」でしょう。
でも、こっちは違うんです…。
その辺の話もまた、いつかどこかで、、、
ベルリンと言えば、ここかな、と。
少しだけ、ベルリンっぽいところを散策しました。
ここは、2014年…かな。
学生たちと一緒にきました。
懐かしいなぁ、、、
ここは、ユダヤ人の「魂」が眠るところ。
ドイツ人たちは、過去と向き合うことから決して逃げません。
自分たちの過ちを繰り返さないためのあらゆる策が練られています。
過去から目を背けてばかりの日本とは大違いかな、と。
もう、日本はこの点に関しては、「手遅れ」かもしれないな。
「歴史修正主義」が国家レベルにまで及んでいるから…。
初めて、「テロのトポグラフィー」に行ってきました。
ヴィジュアル的に、僕らに「過去」を教えてくれます。
ここは是非、行くべき場所だな、、、
「抵抗する人」や「同性愛者」らの「迫害」の様子がいっぱい展示されています。
もちろん「ユダヤ人」たちの「見せしめ」もいっぱい展示されています。
ショックだったのは、抵抗する人たちの「首つり」による最後の抵抗の写真。
これは、さすがにブログでupできないので、、、
戦争が始まれば、もう、死をもって抵抗するしかないんですね。
日本では、ネットなどで、いわば「公開見せしめ」みたいなことが跋扈しているような…
僕らがいったい何をやっているのか、少し、みんな反省的に考えた方がいいかも。
一度、戦争が始まれば、そこはもう地獄、修羅でしかない。
殺人、レイプ、処刑、強制収容…
いつの時代も、戦争において、人間は同じことをただただ繰り返すんです。
…
その翌日は、ハンブルクのシュテルニパルクへ。
ここでも、色々と動きがありました。
今回は、たくさんのシュテルニパルクの関係者と会いました。
ゲーテ通り幼稚園の園長先生といっぱい語れたのは、よかった。
同じ世代の男性で、とても丁寧に説明してくれました。
現在の「初の赤ちゃんポスト」の様子です。
ちなみに、この赤ちゃんポストのある「ゲーテ通り幼稚園」は現在改修工事中。
11月くらいまでに「リフォーム」するみたいです。
今は、一時的に別の幼稚園に子どもたちは通っているみたいで、、、
11月には、みんな戻ってくるみたいです。
それでも、ちゃんと赤ちゃんポストは機能しています。
ほぼ毎日、ちゃんと作動しているか、チェックしているんですって。
徹底しているなぁ、と。。。
幼稚園の入口はこんな感じで、、、(・_・;)
カオスですね、、、
でも、きっと素敵な幼稚園に生まれかわるんだろうな、とも、、、
ドアの位置とかも変えていました。
園内は完全に工事中ですが、それでも、赤ちゃんポストは赤ちゃんを待ち続けています。
園長先生と赤ちゃんポスト。
今年はまだ一人も赤ちゃんは預け入れられていないんだとか、、、
あと、、、
この17年、ハンブルクでは赤ちゃんの遺棄事件は起こっていない、と言っていました。
ドイツ第二の都市で、遺棄事件ゼロが続いているんです。
赤ちゃんポストや匿名出産は、確実に遺棄事件を防いでいる、と言えそうです。
なお、シュテルニパルクとしては、「内密出産はNO!(NEIN!)」でした。
その理由は、また後ほど、、、
…
で、その翌日は、急遽、フレンスブルクへ。
シュテルニパルクが今一番力を入れている「難民児童支援施設」へ。
まさか、この支援施設に来られるとは思ってもみなかった。
ここは、18歳までの子どもたちが過ごす施設。
施設といっても、全部「個室」で、食事も何もかも自分でやらなければならない。
完璧に自立支援のための小規模施設でした。
合計、三か所の「難民児童支援施設」を見せてもらいました。
モイズィッヒ夫妻に、心から感謝!!
数年ぶりに、ザトルプにやってきました。
このザトルプのシュテルニパルクには、母子支援施設が隣接されていたのですが…
なんと、ここも「難民児童支援施設」になっていました。
ここで、たくさんの若者たちと語り合いました。
「僕の夢は、ドイツで、コックになること」
「私の夢は、ドイツで、とりあえず仕事を見つけて、働くこと」
「僕は、まだ先が見えないから、とりあえず勉強する」
「私は、今、マックで職能実習をしている。いつかレストランをやりたい」
…
色んな国から来ていました。
やっぱりシリアとアフガニスタンが多かったような気がしました。
アフガニスタン人の若者たちは、「僕らはアジア人だよ」って言ってました。
日本人は、アフガニスタンのことをどこまで本気で心配しているのかな!?
なんで、同じアジアの日本じゃなくて、はるか遠いドイツに来ているのかな!?
「ドイツは、世界の中でも豊かな国の一つ。難民の受け入れもしっかりやっていく」…
そう、支援員の人が言っていました。
そんな、難民児童支援施設に、赤ちゃんポストはあるんです。
ここの赤ちゃんポストには、ライラ曰く、「一人も預け入れられていない」、と。
でも、ライラの母、ハイディーによれば、「一人、預けられた」、とのこと。
ただ、ちょっと普通の赤ちゃんポストの利用とは違うみたいでした。
ハイディーは言いました。
「突然、私たちの緊急ホットラインに電話がかかってきたんです。電話にでると、緊急下の母親からでした。今から、ザトルプの赤ちゃんポストに赤ちゃんを預けに行く、と。で、うちのスタッフが待ち構えていて、母子が現われると、隣のドアから出たんです。そして、とりあえず中に入って、と。そして、その母親とじっくり話をしました。自宅出産だったので、提携している医師にすぐに来てもらって、診断してもらいました。最初は匿名での相談でしたが、徐々に話していくうちに、自分の連絡先を打ち明けてくれました。その子は、今、母親と一緒に暮らしています。…」
そういうこともあるのか、、、と。
ザトルプの赤ちゃんポストの内部です。
ここは、一応、診療室になっていて、施設の子どもたちがけがをしたりすると、ここに来るそうです。
ハイディーは、とってもパワフルな人で、なんか、全部分かった気がしました。
赤ちゃんポストのアイデアを出したのも、実はハイディー。
一日一緒にいて、この人が類まれな「アイデアウーマン」だということが分かりました。
とんでもなくパワフルで、愛情いっぱいで、賢い方でした。
ベッドもとてもかわいくて、こんなベッドで寝たいなぁ、と思いました。
あと、、、
ハイディーに教えてもらったんですけど、「Babyklappe」って、実は「Bild」(新聞社)が付けたものなんですって。モイズィッヒ夫妻は、「赤ちゃんのベッド」と名付けていたみたいです。
なんか、日本と一緒だ、、、
日本でも、慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」と名付けたけれど、マスコミが「赤ちゃんポスト」という言葉を使ったせいで、この言葉が定着してしまいました。(僕のその責任の一端を担っているんだけど、、、)
でも、ドイツでも、もう「Babyklappe」で統一されているし、それはそれで仕方ないことなのかな…とも。
最後の日のお昼すぎ、、、
モイズッヒ夫妻とその娘さんと支援員の女性二人と、会食をしました。
遂に、ハイディーとユルゲン・モイズッヒ師匠と会食できました(;;)
音楽の話になって、僕が「BETONTODというバンドが好き!」と主張したら、なんとモイズッヒ師匠、スマホでYouTube検索をかけて、BETONTODの曲を大音量で流し始めました。「なかなかいいじゃないか…」と言ってくれました(苦笑)
もちろん、日本の人たちへのメッセージも頂きました。
こちらも、いずれどこかで、、、
最後の夜、フレンスブルクからハンブルクに戻ったのは、夜の9時過ぎ。
ほぼ一日、フレンスブルク・ザトルプのシュテルニパルクで過ごしました。
本当に過酷な状況にある難民の青年たちといっぱいお話できました。
みんな、たくましく生きていました。
日本の国内にいると、「難民児童」ってほとんど見えてこないけど、、、
でも、世界中のあちこちに、行き場をなくした若者たちがいっぱいいるんです。
日本では、まだまだ、「難民の受け入れ」はとても難しい状況にあります。
けれども、、、
祖国から逃げ出して、命がけで亡命した子どもや若者たちを、僕らも支援できるんじゃないか?、と。
(もちろん、そんなことをしたら、日本だと消されそうですけど…)
現在、一番厳しい状況下にあるシリアやイラクの子どもたちはドイツにたどり着けません。
他の国々が、規制をかけて、国境を封鎖しているんです。
他方、アフリカからの難民児童・青年たちはスペイン~フランス経由でどんどんやってきているとか。
…
あと、9時間くらいで、ドイツを離れます。
最後の夜…
この2週間、ホント、内容が濃すぎて、消化しきれていない自分がいます。
でも、一つだけ言えること。
やっぱり、ドイツやスイスから学ぶことはとてつもなく多かった、
ということ。
ここにはupしないけど、14年前に赤ちゃんポストに預けられた子と対面しました。
14歳になっていました。
ただ、その状況はまた想像を絶するものでした。
(とはいえ、ぐれてるとか、荒れてるとかじゃなくて…)
まだ、日本に帰りたくない、、、(;;)
もっとこっちにいたい。
けど、帰国しなきゃいけない。。。
帰国したら、帰宅せずに、某所に向かいます。
朝に帰国したら、そのまま仕事、という過酷なスケジュール、、、
この2週間で、頭も心も体も満身創痍。。。
けど、帰国後も、休みなくずっと働きます、、、
大丈夫かなあ、、、
…