僕は、「家族格差」に関心をよせている。家族間の相違といってもいいかもしれない。
子どもは、親を選べない。どんな家庭に生まれたかで、かなりの方向付けがなされている。親からの影響は絶大で、なかなか親の影響から自由になることはできない。
身体的にも、精神的にも、「私」という存在は、その大部分が家族によって構成されている、と難しくいってもいいかもしれない。
けれど、生まれた直後から親の影響を受けているのではなく、それ以前から、実は大きな影響を親から受けているのではないか?!
賢明で善良な親は、子が生まれる前から、かなりの「予習」を行っている。行政サービスである母親教室や父親教室にも、きちんと参加しているし、「出産後」のさまざまなあり得る「危機」や「リスク」を想定している。「ゆさぶられ症候群」や「マタニティーブルー」など、たいていの親なら知っていることは、すべて「出産前」に事前学習しているはずだ。「沐浴の仕方」や「着替え」、「母乳」、、、なんでもいいが、あらゆる「起こり得る事態」を予期できる状態になっているはずだ。
だが、「緊急下の女性」をはじめ、問題が(後に)起こり得る家庭の親は、そうした「予習」を行っていない。実際に聞いた話だが、そういう親は、「どのように学んだらよいか」がわかっていないのである。行政サービスについても、わかっていないし、母親教室があることさえ知らないケースもある。行政機関がいくらプロモーションをしても、そういう親には届かないのだ。がゆえに、「出産前」から、既に親の状況自体に「格差」が生まれている、といえそうなのだ。
父親となると、さらに違いはかなりはっきりとしてくる。仕事ONLYで生きている父親は、生まれてくる赤ちゃんの知識はもう皆無に近いくらいにない。せいぜい、「小さくてかわいい存在」という程度にしか認識していないはずである。
赤ちゃんのことを少しでも知っていれば、「かわいい」なんて思えるはずがない。強烈に耳障りな泣き声が一日中響くのだ。何もできないから、24時間ケアが必要である。どんな人間であれ、1週間も一緒にいたら、嫌になるし、キレそうになる。毎日が「地獄」となるし、毎日赤ちゃんのキリキリとした泣き声にうなされるのである。
昔の男性は、子育てに関与することはなかったという。力仕事である沐浴でさえ、昔の男は一切やっていなかったそうだ。大昔はわからないが、少なくとも大正~昭和にかけては、男が子育てに協力することなど、微塵もなかったと聞く。
考えてみれば、昔はそれでよかった。母親の周辺には、いろいろな「助けの手」があった。近所の人、親の親、親族、先輩、いろんな人が「子育て」に介入していた。だから、父がいなくても、母だけでなんとかなってきた。(それもどうかと思うが、、、)
けれど、今の母親には、そういう身近なサポートがない。さらに、働く女性もこの数十年でずいぶんと増加した。待機児童を考えると、とてもない数の母親が「出産後」に労働を再開しているのだ。
子育ても「自己責任」となってきた。もちろん、親双方の責任ではあるが、今もたいていの場合、「母親の責任」の下で行われている。母親もそのことを当然知っているわけで、自分の責任として、子育てを引き受けている。だから、今の母親は、己の責任において、子どもの命を一手に引き受けているのである。
がゆえに、どんな母の下で生まれてくるのか、また、どんな父の下で生まれてくるのかがいっそう重要になってくる。父親が今の母親の置かれている状況を理解していないとすれば、母親は出産後にかなり厳しい状況下に置かれることになるだろう。
よくも悪くも、現代の子どもたちは、生まれる前から、既にこうした「親の格差」の影響を受けている。妊婦である妻をいたわり、配慮し、自らも父になろうと欲する父親ならば、その子どもは、生まれる前から親の愛情を(意識されはしなくとも)得ていることになる。だが、妻を苦しめ、追い詰め、冷たくあしらい、父親になるという自覚のない父親ならば、その子どもは、母の体を経由して、悪影響を受ける。
生まれる前から、「格差」は始まっているのかもしれない。