聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 3:22〜30

2019-08-19 11:41:40 | 聖書
2019年8月18日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:22〜30(新共同訳)


 ニコデモとの対話から場面が変わります。
 この箇所は、聖書研究をするなら、90分授業を3回ぐらいしなければならないところです。しかし、礼拝でするのは説教であって、聖書研究ではありません。説教は、その聖書箇所を通して神が何をわたしたちに語りかけておられるかを伝えるものです。「神は皆さんにこう言っておられます」と神のメッセージを語るのが説教です。一方聖書研究は、聖句の意味を明らかにしようとするものです。この箇所であれば、イエスはユダヤ地方のどこに滞在しておられたのだろうか? 地名が出てくるが、これは現在のどこなのだろうか? 洗礼という言葉が出てくるが、どのように行われていたのだろうか? など聖句の語っている内容を明らかにしようとするのが聖書研究です。
 聖書研究をするなら、きょうの箇所は、重大な問題がいくつかあります。
 一つは、22節に「イエスは・・洗礼を授けておられた」とありますが、4:2を見ますと「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」とあります。どちらが正しいのでしょうか。新約が書かれているギリシャ語は、動詞の形が主語の人称や数で変わります。22節の「洗礼を授けていた」という動詞は3人称単数なので、主語は「弟子たち」ではありません。主語は明らかに「イエス」なのです。聖書研究は、このような矛盾と見えるものの説明を追い求めます。
 次に、洗礼者ヨハネの洗礼が出てきますが、これはどのような洗礼だったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めのための洗礼です。イエス キリストの救いに与らせるための洗礼とは違います。では、ヨハネの洗礼を受けた者たちは、改めてイエス キリストの救いに与るための洗礼を受けたのでしょうか?
 などなど、この箇所は考えなければならないと思われることがいくつもあります。
 しかし、聖書が語ろうとしていることは、最後の29, 30節です。ですから、聖書研究は機会があればすることとしまして、説教として語るべき神が語ろうとしておられることに心を向けていきたいと思います。

 2:23に「イエスは・・エルサレムにおられた」とあります。イエスはニコデモとの対話を終えて、エルサレムを離れ、地方に向かわれました。場所は不明ですが、弟子たちと共に滞在し、洗礼を授けておられました。他方ヨハネは、後に捕らえられ、投獄されますが、まだサリム近くのアイノンというところで洗礼を授けていました。
 そこで、ヨハネの弟子たちとユダヤ人の間で、清めのことで議論になりました。清めというのは、ここでは洗礼のことです。洗礼者ヨハネは、人々を悔い改めに導くために洗礼を行っていました(マタイ 3:11)。この議論の内容も具体的には分かりません。けれどおそらく別れ際に「みんなもうイエスのところに行っているじゃないか。ヨハネなんて古いんだよ」といったことを言われたのではないかと思います。
 弟子たちはヨハネの許に来て言います。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」弟子たちも悔しかったのだと思います。人は誰しも自分の所属しているものを誇りたいものです。自分が生まれた土地、住んでいる土地、自分の国、民族、果ては自分の応援しているプロ野球のチームやアイドルグループに至るまで、人は自分とつながりのあるもの、所属しているものを誇りたいのです。

 おそらくヨハネにも弟子たちの気持ちは分かっていたでしょう。しかし、とても大切なことなので、ヨハネは丁寧にそしてはっきりと弟子たちに伝えます。
 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」天というのは神を指しています。人には神から与えられた務めがあります。「わたしは、『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」ヨハネは弟子たちにきちんと自分の務めを明らかにしていました。ヨハネの弟子たちは、ヨハネの証人です。ヨハネが神の委託にどのように応えたかは、弟子たちが証しをします。
 「花嫁を迎えるのは花婿だ。」ヨハネはたとえを使って語ります。花嫁は人々。花婿はイエスです。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」花婿の介添え人、これがヨハネであり、わたしたちを含めたキリストを宣べ伝える者です。ユダヤの婚礼において、介添え人は花嫁を花婿のところへ連れてくる務めを担います。その務めを果たしたら、介添え人は婚礼の舞台から退場します。けれど婚礼は、そのために仕えた介添え人に大きな喜びをもたらします。同様に、人々がイエスの許に集っているのを聞いて、ヨハネは喜ぶのです。イエスご自身が人々に語りかけてくださるのを聞いて、喜ぶのです。
 ヨハネは、旧約においてイスラエルが神の花嫁とたとえられている(イザヤ 54:5)のを使って、弟子たちに人々はイエス キリストの花嫁であって、自分が花婿ではないことを伝えようとしました。

 そして最後にヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。ここはもう少し正しいイメージを持てるように別の訳を使いたいと思います。それは「その方は大きくなり、私は小さくなっていくだろう」(田川健三 訳)という訳です。この訳の方が、聖書が伝えようとしているイメージを受け取りやすいと思います。
 キリストを証しする者は「この人を見よ」と言ってイエス キリストを指し示します。当然言われた人々は、イエスキリストの方を見ます。ところが、牧師は時に自分が教えたとおりに理解しなければ、イエス キリストに近づくことは許さないとしてしまいがちなのです。本来であれば、ヨハネが言うとおり介添え人同様、皆さんがイエス キリストに出会ったならば、次第に小さくならねばならず、皆さんの目にそして心にイエス キリストが大きく大きく映っていくように、そしてイエス キリストに従い、キリストと共に歩めるようにしていくのが本来なのです。

 しかしこれがなかなか難しいのです。イエス キリストよりも人の方が大きく映ってしまいます。牧師を中心としたのでは、キリストの教会は立たないのに、「牧師を中心に教会を建て」と言われたり、教会を表すのについ「〇〇先生の教会ですね」と言ってしまったりします。

 きょう最初に聖書研究と説教の違いについて触れたのは、わたしたちが主の日ごとに礼拝へと招かれるのは、教養のために聖書の勉強をしたり、知的好奇心を満たすために聖書の解説を聞きに来ているのではない、ということに気づいて頂きたいからです。教会では、御言葉の学びという言い方がされますが、礼拝においては学びが行われているのではありません。礼拝においてわたしたちに語りかけてくださる神の声を聞くのです。聖霊において臨在してくださるイエス キリストご自身に出会い、イエス キリストを通してわたしたちの命と救いの源である神を知るのです。そのために、わたしたちは礼拝に招かれているのです。

 どうか礼拝を通して、本当の救い主であるイエス キリストと出会われますように。聖書と説教を通して、今皆さんに語りかけておられる神の声を聞くことができますように。そして皆さんの中でイエス キリストがますます大きくなり、イエス キリストに満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをイエス キリストに出会わせ、イエス キリストで満たしてください。わたしたちの救いのためにその命を献げ、そして復活してくださったイエス キリストの救いでわたしたちを満たしてください。イエス キリストと共に救いの道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン