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ローマの信徒への手紙 8:35〜39

2019-08-26 12:00:14 | 聖書
2019年8月25(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:35〜39(新共同訳)


 パウロは、3:21からキリストの福音を語ってきました。それがきょうの8:39で一区切りとなります。
 キリストの福音をまとめるにあたり、パウロは問いを投げかけます。前回の箇所では、31節「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」33節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」
 いずれの問いの答えも「そんなことをできるものはいない」です。神の救いの御業を信じるだけでなく、律法など人間の業に頼りたくなってしまうわたしたちの不安、不信仰に対して、問いを通して打ち消そうとしています。
 そしてきょうの箇所で最後の問いを投げかけます。35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」

 パウロは皆が不安に感じているものを挙げていきます。「艱難ならキリストの愛を引き離すと思いますか。苦しみならどうですか。迫害の方がキリストの愛よりも強いと思いますか。キリストの愛も飢えにはかないませんか。それとも裸でしょうか、危険でしょうか、剣でしょうか。」

 使徒言行録においてパウロとバルナバが、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」(使徒 14:22)とあります。
 罪の世で、キリストに従って歩むには、様々な困難があります。パウロは詩編 44:23「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」を引用して、それは旧約の時代から言われているとおりで、神の言葉が苦難が伴うことを明らかにしていると語ります。
 詩編は神に呼びかけていますから、「あなたのために」とは「神のために」という意味です。そしてこの詩編は続けて「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください」(詩編 44:24)と神に呼びかけます。
 そして神は、その罪の世の困難の中にあるわたしたちを捉えるために、詩編の祈り、代々の神の民の祈りに応えて、イエス キリストを人として、救い主としてこの世に遣わしてくださいました。

 35節で列挙されたもの「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」これらは、イエス キリストが経験された事柄です。一体どれがキリストにわたしたちを愛することをあきらめさせただろうか。キリストは十字架の死に至るまでわたしたちを愛してくださいました。艱難も苦しみも、迫害も飢えも、裸も危険も剣も、キリストがわたしたちを愛することをあきらめさせることはありませんでした。さらに十字架の死に至るまでではなく、キリストは復活をして弟子たちに現れ、弟子たちの信仰を生き返らせてくださいました。
 イエスを3度自分を知らないと言ったペトロに対しても、それを拭い去るかのように3度「わたしを愛しているか」(ヨハネ 21:15~17)と問うて、主の羊を飼う務めを与えてくださいました。

 イエス キリストは、わたしたちを救うために、罪の世の苦難の中に来られ、36節のような神への祈り「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」という祈りも共にしてくださり、十字架の道を進んでいかれました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ 2:18)

 神が遣わし、与えてくださった救い主、イエス キリストに思いを向け、仰ぎ見るときに、わたしたちは救いを確信することができるのです。
 かつてイエスが湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟に近づかれたとき、ペトロが「水の上を歩いてそちらへ行かせてください」と頼んで歩かせてもらったときも、イエスよりも強い風に気になって怖くなってしまったとき、沈みかけてしまいました(マタイ 14:22~33)。イエス キリストを見ずに、この世に目を向けたとき、わたしたちは不安に捕らわれてしまいます。
 イエス キリストを仰ぎ見るときに、神のわたしたちに対する思いを確信することができるのです。そしてイエス キリストがわたしを救ってくださることを信じることができるのです。

 だからパウロはこう宣言します。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
 イエス キリストが勝利者なのです。キリストが罪に勝利してくださったのです。イエス キリストが十字架の苦難を負い、わたしたちの罪を贖い、死を打ち破って復活してくださったので、わたしたちはキリストの勝利に中に入れて頂いているのです。キリストの永遠の命に入れられ、神の国に生きる未来を与えられているのです。

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 パウロはその当時の世界観の中で、人生に影響を及ぼすと考えられていたものを次々と挙げて、世にあるどんなものも、わたしたちの真の主であるキリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないと宣言したのです。

 救いの鍵は、神の愛です。
 ハイデルベルク教理問答などのカテキズムでも示されているとおり、わたしたちがなす善き業・愛は、神の救いの業・神の愛への感謝の応答です。神の愛がすべての基であり、すべてに勝利するのです。そして神の愛を証しするのがイエス キリストです。わたしたちは、イエス キリストに結び合わされることにより、救いに入れられ、父・子・聖霊なる神との交わりのただ中に置かれ、神と共に歩むのです。

 ですから、先週の聖書とのつながりで言うなら、イエス キリストが皆さんの中でますます大きくなっていく(ヨハネ 3:30)ことが大事です。イエス キリストに思いが向かうなら、神の愛の確信が深まり、キリストの救いが確かな支えとなっていきます。神は、このパウロの確信が皆さん一人ひとりの確信となることを願っておられます。

 わたしたちを造られた神が、わたしたちを愛しています。わたしたち一人ひとりのために、イエス キリストを遣わし、救いをなしてくださいました。皆さんが神を喜び、救いに生きるためであります。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストに満たされていきますように。キリストによって示されたあなたの愛で満たしてください。あなたがわたしたちの救いであることを確信させてください。あなたの平安に与らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン