聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 4:19〜23

2019-10-06 23:41:19 | 聖書
2019年10月6日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:19〜23(新共同訳)


 イエスは、弟子たちとガリラヤへ行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄られました。イエスはそこで、名も知れぬ一人の女性と出会われました。
 イエスが「水を飲ませてほしい」と頼まれたことから対話が始まりました。イエスはお願いしている立場なのに、彼女に対してかなり偉そうに語ります。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 実は彼女には、町の人が集まる井戸に来たくない理由がありました。そこで彼女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と頼みます。
 するとイエスは突然訳の分からないことを言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は「なぜ、そんなことを」と思ったかもしれませんが、答えます。「わたしには夫はいません。」するとすぐさまイエスは言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 イエスは彼女を知っておられたのです。彼女の魂の渇きを知っておられました。イエスは彼女と出会うためにこのシカルの町に立ち寄られたのです。

 彼女は理由を探します。5回も別れることになった理由を探します。自分の何がいけないのだろうか。それともわたしは神に嫌われているのだろうか。わたしには神に喜ばれない何かがあるのだろうか。彼女は5回の別れによって自分に対して不安を募らせていました。
 彼女はイエスの言葉を聞いて、イエスが神から遣わされた預言者ではないのかと思い、イエスに尋ねます。
 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 この人に尋ねたら、今の不幸を抜け出し、神の恵みに与れる方法が分かるのではないかと彼女は期待しました。

 イエスは言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」
 不安に包まれている彼女にイエスは言います。「わたしを信じなさい。」

 現代は、目に見える世界だけを信じる方向へと進んで行っています。この世での成功者を勝ち組と呼ぶ律法主義で、人間の価値を計り、傷つき疲れています。けれども、この世の力や方法の及ばないものがもたらす不安に絶えず脅かされています。それは時間であり、時間がもたらす老いと死です。このサマリアの女性は自分が経験した5回の別れにより、時は愛をも変えてしまうという不安に脅かされています。だから今は、正式に結婚せずに男と暮らしています。そんな罪の世の不安のただ中に、イエスは信じられる存在となって来てくださいました。罪によって、目に見える世界だけを信じる方向へと歩むわたしたちに、神だけが時間に打ち勝つ永遠の命を与えてくださるのです。そしてイエスがわたしたちを神へと導くのです。

 「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」
 罪は、わたしたちを神のいない世界へと導こうとします。そして罪に導かれて、目に見える世界だけを見ようとしています。しかしこの世の力や方法の及ばないものに振り回されます。それが人間自身の行為であることもあります。それはこの世で最も重んじられる富、経済です。経済は、人間の営みなのに制御できません。目に見える世界だけを見ようとしているのに、その世界の中心にある経済に振り回される。そして目に見える世界だけで生きようとしても、逃げ出すことのできない時間の中で現れてくる病と老いと死。そんな中で、罪人は成功と幸せをもたらしてくれる神々を手軽に利用しようとします。そういう中では、神は誰でもいいのです。神が誰かを知る必要もないのです。

 しかし、神はご自身を啓示し、知ることを求めておられます。イエス キリストにおいてご自身の愛を伝え注がれる方です。そして神の民を用いて、代々にイエス キリストを宣べ伝えていかれます。イエスがこの名もなき女性を知っておられたように、神はわたしたちを知っておられます。そして、神はわたしたち人間も神を知ってほしいと願っておられます。だから救いは、神を証しし宣べ伝える神の民、ユダヤ人、キリスト者から来るのです。

 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」
 神は、不安に満ち揺らぎに満ちているこの世にあって、まことの礼拝が必要だと考えておられます。まことの礼拝とは何か。それは霊と真理をもってなされる礼拝です。
 霊とは、神とのつながりです。神の霊、聖霊によってわたしたちがイエス キリストを知るようになったように、聖霊により、神を知り、神が注いでくださる恵みを受けて礼拝するのです。聖霊により、聖書が分かり、神を知り、神の恵みを喜んで礼拝するのです。
 真理とは、イエス キリストです。イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)神とわたしたちとの間に立って、わたしたちを神の子としてくださったイエス キリストにより礼拝するのです。

 つまり、まことの礼拝が献げられるとき、そこには父と子と聖霊の三位一体の神との交わりがあるのです。父がまことの礼拝を求め、聖霊と真理であるイエス キリストをもってまことの礼拝がなされます。まことの礼拝には、父と子と聖霊の三位一体の神の交わりが現れます。
 父は御子を遣わしてまでわたしたちを救おうと計画されました。その父の計画、御心を、御子は人となってこの世に来られ、実現されました。そのイエス キリストご自身に聖霊が結び合わせてくださいます。わたしたちの救いには、父・子・聖霊なる三位一体の神がすべて関わっていてくださいます。
 まことの礼拝を献げるというのは、父・子・聖霊なる三位一体の神の交わりに入れて頂くことなのです。「父はこのように礼拝する者を求めておられ」ます。神がこのサマリアの女性を知っておられ、イエスが彼女を求めてシカルの町まで来られたように、神はわたしたち一人ひとりを知っておられ、わたしたちと交わり、共に生きることを求めておられます。そして神がわたしたちを求め捉えてくださったので、わたしたちは今、神の御前に集っているのです。

 罪がもたらす不安の中で生きるわたしたちは、父・子・聖霊なるまことの神と出会うときに、わたしを支える確かなものに出会うのです。わたしの人生の始まりには、神の愛と喜びがあった。罪を犯してなお、神は赦しと愛を与えてくださった。そしてイエス キリストによって、死を超える命の道が開かれ、神を喜ぶ永遠の命が与えられている。絶えず不安に揺さぶられるわたしたちを、神が支えてくださり、導いてくださいます。このサマリアの女性は、5回も別れを経験し、悲しみを負っています。しかし神は、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方。御子を遣わしてまでわたしたちを求めるお方です。わたしたちには、このまことの神が必要なのです。神と共に生きることが必要なのです。このサマリアの女性にも、わたしたちにも必要なのです。その神を知るようにと、神はわたしたちをこのまことの礼拝へと招き、与らせてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちを知っていてくださり、求めていてくださることを感謝します。わたしたちをまことの礼拝へと招いてくださり、父・子・聖霊なる神の交わりの中に入れてくださることを感謝します。わたしたちと共に生きようとしてくださるあなたを日ごとに深く知っていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:6〜13

2019-10-06 23:39:13 | 聖書
2019年9月29(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:6〜13(新共同訳)


 パウロは今、イスラエルの救いについて考えています。イスラエルは、神の選びの民です。神がアブラハムを召し出されて以来、神の民として歩んできました。ヤコブのときにイスラエルという名前を与えられてからイスラエルの名で呼ばれるようになりました。ソロモン王の後、国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。それぞれアッシリア、新バビロニアに滅ぼされ国を失いました。残された人々がユダヤという国を建てて、何とか歩んできました。パウロがこの手紙を書いている時、ユダヤはローマ帝国の属国として存在していました。
 パウロは知りませんが、この後紀元70年にユダヤはローマによって滅ぼされ、2,000年近く流浪の民として歩みます。
 長い歴史の中で、彼らはイスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。

 パウロは思います。神は約束を実現して救い主をお遣わしてくださった。神の約束を信じて歩んできたイスラエルこそ、その救いに与ってほしい。けれど、イエス キリストを受け入れない多くのイスラエルの気持ちも分かります。パウロ自身、キリスト教徒を迫害してきたからです。彼もイエス キリストを信じない者の一人でした。復活のキリストが出会ってくださらなければ、今も迫害者のままだったかもしれません。だからパウロは考えます。どうしたらイスラエルの民はイエス キリストを信じて、救いに与れるだろうか。
 これはすべての伝道に仕える者に共通する思いです。「どうしたらイエス キリストを伝えられるだろうか。」

 パウロは言います。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」これは、旧約の民イスラエルと交わした神の約束が無効とされたのではない、ということを言おうとしています。パウロは、神の約束、神の御心からイスラエルに語りかけようとしています。
 「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」
 アブラハムには、ハガルというそばめが生んだイシュマエルという息子もいました。しかし神はサラが生んだ「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われました。神の民は、神がお決めになるのです。パウロは言外に「神はキリストから生まれる者が、神の民と呼ばれるとお決めにられたのだ。これが新しい約束なのだ」と言っているのです。

 「約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした。」この言葉を聞いた時、サラはひそかに笑いました。しかし主はアブラハムに言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、わたしはここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。」
 神が告げられた時、アブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。信じられないのは当然です。しかしアブラハムとサラは、神の約束は必ず実現するということを経験しなければなりませんでした。

 「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。」リベカはイサクの妻で、ヤコブとエサウの母親です。
 「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」

 ここで「憎んだ」という言葉に引っかかりを覚える方もおられると思いますので、少しだけ説明します。この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書がありました(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。

 神はご自身の民としてヤコブを選ばれました。ヤコブとエサウが生まれる前からの選びです。行いは全く関係ありません。ただ神がヤコブを選び、彼を用いて救いの業をするとお決めになったのです。

 わたしの両親はキリスト者ではありません。弟も弟の家族も違います。なぜ、わたしだけがキリストを信じたのでしょうか。他の家族よりもまじめだったからでしょうか。優しかったからでしょうか。優れていたからでしょうか。どれも違います。わたしの思いを超える、神の選びがあり、神が救いの御業の中でどういう風になのかは分かりませんが、用いるとお決めになったからです。それによって「今どき神が命を創造しただなんてたわけたことを信じる人がいるのか」と信仰を愚かだと思っていた人間が、キリストを宣べ伝えるようにされたのです。

 神は、ご自身の独り子イエス キリストを選ばれました。救い主として選ばれました。自由な選び、人の業にも囚われない自由、その自由を神は救いのためにお用いになります。イエス キリストはユダヤ人として、イスラエルの一員としてお生まれになりました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、神の約束のとおりお生まれになりました。およそ30歳から救い主として歩まれ、十字架を負い、陰府に降り、死を打ち破って復活し、天に昇られ、救いの道を開かれたのです。そして、キリストを信じることにより、わたしたちは神の子として新しく生まれるのです。ここから新たな神の民が生まれます。これが神の約束であり、選びなのです。

 パウロは、イスラエルの民が、自分の誇りに執着するのではなく、神の約束と選びに思いを向け、心を開くように願っています。神の約束は揺るがなかった。ただ人の思いを超えるものだったのです。

 今、神はパウロの手紙を通してわたしたちにも、ご自身の約束・選びを示されます。なぜ今皆さんが神の御前に集っておられるのか。それはただただ神の選びにより、神の約束の中に入れられているからです。

 旧約・新約の約は、約束の約です。神は全能で自由な方です。それなのにわたしたちの救いのために、ご自身を約束の中に置いてくださいます。わたしたちが神の約束によって、守られ支えられるためです。わたしたちの揺らぐ信仰は、神の約束によって守られ支えられます。そして、神が選ばれた救い主イエス キリストを仰ぎ見る時、わたしたちはキリストによって救われていることを信じることができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストの救いの御業の中で、わたしたちを選び、約束の子としてくださったことを感謝します。あなたの愛と真実により、わたしたちはあなたの選びと約束に守られ、支えられております。どうか聖霊を注ぎ、あなたをいよいよ知る者、あなたを喜ぶ者で在らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン