2019年10月13(日)主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 9:11~18(新共同訳)
パウロは、神の民を自認するイスラエルに対して、神の民は神の選びと約束によって生まれるということ、そして神はご自身の御子イエス キリストを選び、イエス キリストに救いの約束を委ねられたことを語ります。
神はイスラエルとの約束のとおり、イスラエルの子孫にイエス、救い主を与えられました。イエス キリストにおいてイスラエルとの約束は成就されました。そして今度は、イエス キリストを救い主と信じて、神の御心と御業を受け入れた者が神の子として選ばれ、救いの約束を担う務めを与えられたのです。
救いは、神の御心、神のご計画によるものです。わたしたちから「こういう風に救ってください」「ユダヤ人だけ救ってください」と要求することはできません。パウロは、イスラエルの民、ユダヤ人が「救いは神の御心による」ということを理解するようにと語ります。
11節「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
神は自由な、そして不思議な御心によって、世界のあらゆる民の中からアブラハムを選び、そしてエサウではなくヤコブを選ばれました。そしてわたしたちも選ばれました。
ここで「憎んだ」という言葉に引っかかる方もおられると思いますので、簡単に説明しますと、この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書があります(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。神はヤコブの方をより愛されたのです。聖書で「愛する」というのは「共に生きる」ということですから、神はヤコブを神の民と選び、ヤコブと共に歩んで救いの業を進めていかれた、ということです。
14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。」
この問いは、神の民の中にずっと漂い続けているものです。なぜ神はみんなを選ばずにある者を選ばれるのだろうか。神はえこひいきをしておられるのだろうか。「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と言われるならば、わたしは憎まれる方、少ししか愛されない方かもしれない。どこまでも疑いは尽きず、疑いは不安へと変わります。
パウロは「決してそうではない」と言いますが、その後の言葉を聞いても、疑いも不安も晴れません。
「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。」
やっぱり神の気まぐれじゃないか、と思います。
しかしパウロはこう続けます。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」
17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
きょうの箇所では「神の憐れみ」と「わたしの名を全世界に告げ知らせるため」の2つが大事です。
神の憐れみが選びの基にあるとパウロは語ります。
「主よ、憐れんでください」という祈りは、詩編に何度も出てくる祈りです。パウロがこの神の憐れみということを指摘したのは、神の選びは救いのためのものであるということを明らかにしようとしているからです。そしてこの手紙が語ってきたように、神の選びは、御子イエス キリストへと向かいました。
聖書は、イエス キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1ヨハネ 2:2)と語ります。神はお造りになったすべてのものを救うために、イエス キリストを選ばれました。ですから、神の選びはすべての人を救うためであり、すべての人を憐れむためなのです。神はすべての人を憐れみ、救うために、アブラハムを選び、ヤコブを選ばれたのです。そしてイエス キリストをお選びになり、さらにわたしたちも選ばれたのです。その選びの根底にあるのは、神の憐れみなのです。
そして神の名を「全世界に告げ知らせるため」に、憐れみ・かたくなを御心のままに用いられるというのです。神の名が告げ知らせられるというのは、神の救いの御業が進められるということです。
神は人と世界を救うために御業をなしてこられました。聖書に記されているすべての業が救いのためのものです。そして救いの御業は、わたしたちに対する愛と憐れみの故に、神の御心によってなされてきました。わたしたちが神に救いの御業をなさせるために努力したのではありません。わたしたちがイエス キリストを遣わすように神を説得したのでもありません。ただ神の愛と憐れみの故に、神の御心と御業によって、わたしたちは救いへと導き入れられたのです。
わたしたちが選ばれ、信仰が与えられたのは、神の救いの御業のためです。ですから、まだ信仰を持たない家族・友人のために祈り、社会・世界に神の国が到来するように祈り、イエス キリストを証ししていくのです。神はわたしたち一人ひとりの多様な賜物を必要としておられ、お用いになられます。
わたしたち一人ひとりの救いも、この世の救いも、神の御心、計画にあります。わたしたちは愛と憐れみに満ちた神の御心を信じて大丈夫なのです。
聖書は語ります。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テモテ 3:5)
ハレルヤ
父なる神さま
あなたはすべての御業を救いのためになされます。あなたの御業にはわたしたちへの憐れみがあります。どうかあなたの愛と憐れみに満ちた御心に気づかせてください。どうかあなたの御心が成りますように。あなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 9:11~18(新共同訳)
パウロは、神の民を自認するイスラエルに対して、神の民は神の選びと約束によって生まれるということ、そして神はご自身の御子イエス キリストを選び、イエス キリストに救いの約束を委ねられたことを語ります。
神はイスラエルとの約束のとおり、イスラエルの子孫にイエス、救い主を与えられました。イエス キリストにおいてイスラエルとの約束は成就されました。そして今度は、イエス キリストを救い主と信じて、神の御心と御業を受け入れた者が神の子として選ばれ、救いの約束を担う務めを与えられたのです。
救いは、神の御心、神のご計画によるものです。わたしたちから「こういう風に救ってください」「ユダヤ人だけ救ってください」と要求することはできません。パウロは、イスラエルの民、ユダヤ人が「救いは神の御心による」ということを理解するようにと語ります。
11節「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
神は自由な、そして不思議な御心によって、世界のあらゆる民の中からアブラハムを選び、そしてエサウではなくヤコブを選ばれました。そしてわたしたちも選ばれました。
ここで「憎んだ」という言葉に引っかかる方もおられると思いますので、簡単に説明しますと、この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書があります(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。神はヤコブの方をより愛されたのです。聖書で「愛する」というのは「共に生きる」ということですから、神はヤコブを神の民と選び、ヤコブと共に歩んで救いの業を進めていかれた、ということです。
14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。」
この問いは、神の民の中にずっと漂い続けているものです。なぜ神はみんなを選ばずにある者を選ばれるのだろうか。神はえこひいきをしておられるのだろうか。「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と言われるならば、わたしは憎まれる方、少ししか愛されない方かもしれない。どこまでも疑いは尽きず、疑いは不安へと変わります。
パウロは「決してそうではない」と言いますが、その後の言葉を聞いても、疑いも不安も晴れません。
「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。」
やっぱり神の気まぐれじゃないか、と思います。
しかしパウロはこう続けます。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」
17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
きょうの箇所では「神の憐れみ」と「わたしの名を全世界に告げ知らせるため」の2つが大事です。
神の憐れみが選びの基にあるとパウロは語ります。
「主よ、憐れんでください」という祈りは、詩編に何度も出てくる祈りです。パウロがこの神の憐れみということを指摘したのは、神の選びは救いのためのものであるということを明らかにしようとしているからです。そしてこの手紙が語ってきたように、神の選びは、御子イエス キリストへと向かいました。
聖書は、イエス キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1ヨハネ 2:2)と語ります。神はお造りになったすべてのものを救うために、イエス キリストを選ばれました。ですから、神の選びはすべての人を救うためであり、すべての人を憐れむためなのです。神はすべての人を憐れみ、救うために、アブラハムを選び、ヤコブを選ばれたのです。そしてイエス キリストをお選びになり、さらにわたしたちも選ばれたのです。その選びの根底にあるのは、神の憐れみなのです。
そして神の名を「全世界に告げ知らせるため」に、憐れみ・かたくなを御心のままに用いられるというのです。神の名が告げ知らせられるというのは、神の救いの御業が進められるということです。
神は人と世界を救うために御業をなしてこられました。聖書に記されているすべての業が救いのためのものです。そして救いの御業は、わたしたちに対する愛と憐れみの故に、神の御心によってなされてきました。わたしたちが神に救いの御業をなさせるために努力したのではありません。わたしたちがイエス キリストを遣わすように神を説得したのでもありません。ただ神の愛と憐れみの故に、神の御心と御業によって、わたしたちは救いへと導き入れられたのです。
わたしたちが選ばれ、信仰が与えられたのは、神の救いの御業のためです。ですから、まだ信仰を持たない家族・友人のために祈り、社会・世界に神の国が到来するように祈り、イエス キリストを証ししていくのです。神はわたしたち一人ひとりの多様な賜物を必要としておられ、お用いになられます。
わたしたち一人ひとりの救いも、この世の救いも、神の御心、計画にあります。わたしたちは愛と憐れみに満ちた神の御心を信じて大丈夫なのです。
聖書は語ります。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テモテ 3:5)
ハレルヤ
父なる神さま
あなたはすべての御業を救いのためになされます。あなたの御業にはわたしたちへの憐れみがあります。どうかあなたの愛と憐れみに満ちた御心に気づかせてください。どうかあなたの御心が成りますように。あなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン