2020年1月1日(水) 新年礼拝
聖書:申命記 11:8〜12(新共同訳)
今年最初に聞く御言葉は、申命記の言葉です。申命記は旧約の5番目の書物です。申命記の「申」には「重ねる」という意味があります。ですから「申命記」の「申命」とは重ねて命じるという意味です。モーセが約束の地を目前にして、最後にもう一度説教してヨシュアに引き継ぐのが申命記です。
きょうの箇所のメッセージははっきりしています。戒めを守りなさい、ということです。ですが、どのように戒めを守るのかが問題になってきます。
たとえば旧約の民、ユダヤ教徒は旧約の戒めに従って今日でも豚肉を食べない人が多くいるだろうと思います。一方キリスト教徒は、嫌いな人や菜食主義の人を除いて豚肉を食べるのに抵抗のある人はいないのではないかと思います。
戒めに限らず、神の言葉を聞くとき、必ず解釈が生じます。その解釈の基準が重要になってきます。その点に気をつけながら、きょうの御言葉を読んでいきたいと思います。
「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。」
神が用意していてくださる恵みを受けるために、神は戒めを用意してくださいました。戒めは、神と共に歩み、神の恵みに至る道しるべなのです。
きょうの礼拝では、戒めは赦しの言葉の後にあります。これは、戒めを守って救いに至るのではなく、赦され、救われて神の民とされたからこそ、神と共に歩むため与えられた恵みが戒めであることをその順序で表しています。
よく「福音と律法」という言い方がされますが、律法は福音と対立するものではありません。律法も恵みです。神がわたしたちのために語ってくださるものはすべて福音なのです。
神は、救った後に「後は自分で頑張れ」と言って放り出されるのではありません。例えて言うならば、救った人間を砂漠の真ん中において「後は自分でちゃんとやってね。オアシスに着くといいね」とは神は言われないのです。救われたからこそ、救いの中に留まり、恵みから恵みへと歩むために戒め・律法が与えられているのです。
ですから、戒めは窮屈だとは思わないで頂きたいのです。登山や旅に地図を持っていくように、神は神の国を目指すわたしたちの人生に地図を与えてくださっているのです。ただ人は罪を抱えていますから、神から地図をもらわなくても、地図は既に持っているからいらないと思ってしまうのです。ですが、神から頂く地図以外には、神の国に至るルートは記されていないのです。
戒めは「なぜ神はこういう戒めを与えられたのだろう」と神の御心を考えることが大切です。この神の御心を問うことこそ、聖書解釈の最も重要な基準です。これにより律法学者・ファリサイ派の人たちのように形式的に守るのではなく、神の御心を求める中で、神の愛が現れるように、共に神の祝福に与るように守っていくのです。
「こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。」
神が導こうとされている約束の地は、エデンの園を思わせる生きるための恵みが溢れ、長く生きることが約束された土地です。イスラエルにとっては地上にあるカナンの地でしたが、わたしたちにとっては神の国こそ約束の地です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言っています。
わたしたちの信仰生活は、救いの完成の先駆けです。大好きなドラマや映画の予告編に似ています。本編を見るのを楽しみにしながらその日が来るのを待ち望んで歩むのです。礼拝も聖晩餐も、神の国の喜びを証しするものです。それに与りながら、神の国の到来を望み見て歩むのです。
「あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。」
わたしたちの人生は、旧約の民の荒れ野の旅にも似ています。わたしたちの人生は本国である天・神の国を目指して歩む旅のようです。神は礼拝を通して旅の終わりを楽しみに生きられるようにしてくださいました。イエスは言われました。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ 17:21)。食事が始まる前にやって来た子どもにちょっと味わわせてくれる親のように、神は救いの完成、神の国の到来を楽しみにし、望み見て歩めるように、礼拝も聖晩餐も、神の言葉も戒めも備えてくださっているのです。
ですからこの新しい年も、神が備えてくださった恵みを味わい、神を喜んで歩んで行きたいと願っています。
「それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」
罪の世にあると「神はおられないのではないか」と思うことがしばしばあります。罪は神の不在を信じさせようとします。ですから神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と語られます。だからイエス キリストは「インマヌエル 神は我々と共におられる」という神の御心を成就するために来られました。十字架も復活もわたしたちのためのものでした。そして、聖霊によってわたしたちはイエス キリストと一つに結び合わされて、「キリストがわたしの内に生きておられ」(ガラテヤ 2:10)るようにされているのです。たとえ迷いだしても、捜し求め見つけ出してくださいます(ルカ 15:1~7)。昨年ヨハネによる福音書から聞いたサマリアのシカルの女性もそうでした。神はご自分が造られたものをどれ一つ忘れることがありません。主が始めてくださったこの新しい年も、始めから終わりまでわたしたちを御心にかけ、常に目を注いでいてくださいます。
だからわたしたちは、主の平安に生きることができるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この年もあなたがわたしたちの主であってくださいますように。あなたが御言葉によって導かれる救いの道を喜びと感謝をもって歩み行くことができますように。あなたの栄光が豊かに現れ、わたしたちの住むこの社会、この国、この世界があなたの祝福に満たされていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:申命記 11:8〜12(新共同訳)
今年最初に聞く御言葉は、申命記の言葉です。申命記は旧約の5番目の書物です。申命記の「申」には「重ねる」という意味があります。ですから「申命記」の「申命」とは重ねて命じるという意味です。モーセが約束の地を目前にして、最後にもう一度説教してヨシュアに引き継ぐのが申命記です。
きょうの箇所のメッセージははっきりしています。戒めを守りなさい、ということです。ですが、どのように戒めを守るのかが問題になってきます。
たとえば旧約の民、ユダヤ教徒は旧約の戒めに従って今日でも豚肉を食べない人が多くいるだろうと思います。一方キリスト教徒は、嫌いな人や菜食主義の人を除いて豚肉を食べるのに抵抗のある人はいないのではないかと思います。
戒めに限らず、神の言葉を聞くとき、必ず解釈が生じます。その解釈の基準が重要になってきます。その点に気をつけながら、きょうの御言葉を読んでいきたいと思います。
「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。」
神が用意していてくださる恵みを受けるために、神は戒めを用意してくださいました。戒めは、神と共に歩み、神の恵みに至る道しるべなのです。
きょうの礼拝では、戒めは赦しの言葉の後にあります。これは、戒めを守って救いに至るのではなく、赦され、救われて神の民とされたからこそ、神と共に歩むため与えられた恵みが戒めであることをその順序で表しています。
よく「福音と律法」という言い方がされますが、律法は福音と対立するものではありません。律法も恵みです。神がわたしたちのために語ってくださるものはすべて福音なのです。
神は、救った後に「後は自分で頑張れ」と言って放り出されるのではありません。例えて言うならば、救った人間を砂漠の真ん中において「後は自分でちゃんとやってね。オアシスに着くといいね」とは神は言われないのです。救われたからこそ、救いの中に留まり、恵みから恵みへと歩むために戒め・律法が与えられているのです。
ですから、戒めは窮屈だとは思わないで頂きたいのです。登山や旅に地図を持っていくように、神は神の国を目指すわたしたちの人生に地図を与えてくださっているのです。ただ人は罪を抱えていますから、神から地図をもらわなくても、地図は既に持っているからいらないと思ってしまうのです。ですが、神から頂く地図以外には、神の国に至るルートは記されていないのです。
戒めは「なぜ神はこういう戒めを与えられたのだろう」と神の御心を考えることが大切です。この神の御心を問うことこそ、聖書解釈の最も重要な基準です。これにより律法学者・ファリサイ派の人たちのように形式的に守るのではなく、神の御心を求める中で、神の愛が現れるように、共に神の祝福に与るように守っていくのです。
「こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。」
神が導こうとされている約束の地は、エデンの園を思わせる生きるための恵みが溢れ、長く生きることが約束された土地です。イスラエルにとっては地上にあるカナンの地でしたが、わたしたちにとっては神の国こそ約束の地です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言っています。
わたしたちの信仰生活は、救いの完成の先駆けです。大好きなドラマや映画の予告編に似ています。本編を見るのを楽しみにしながらその日が来るのを待ち望んで歩むのです。礼拝も聖晩餐も、神の国の喜びを証しするものです。それに与りながら、神の国の到来を望み見て歩むのです。
「あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。」
わたしたちの人生は、旧約の民の荒れ野の旅にも似ています。わたしたちの人生は本国である天・神の国を目指して歩む旅のようです。神は礼拝を通して旅の終わりを楽しみに生きられるようにしてくださいました。イエスは言われました。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ 17:21)。食事が始まる前にやって来た子どもにちょっと味わわせてくれる親のように、神は救いの完成、神の国の到来を楽しみにし、望み見て歩めるように、礼拝も聖晩餐も、神の言葉も戒めも備えてくださっているのです。
ですからこの新しい年も、神が備えてくださった恵みを味わい、神を喜んで歩んで行きたいと願っています。
「それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」
罪の世にあると「神はおられないのではないか」と思うことがしばしばあります。罪は神の不在を信じさせようとします。ですから神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と語られます。だからイエス キリストは「インマヌエル 神は我々と共におられる」という神の御心を成就するために来られました。十字架も復活もわたしたちのためのものでした。そして、聖霊によってわたしたちはイエス キリストと一つに結び合わされて、「キリストがわたしの内に生きておられ」(ガラテヤ 2:10)るようにされているのです。たとえ迷いだしても、捜し求め見つけ出してくださいます(ルカ 15:1~7)。昨年ヨハネによる福音書から聞いたサマリアのシカルの女性もそうでした。神はご自分が造られたものをどれ一つ忘れることがありません。主が始めてくださったこの新しい年も、始めから終わりまでわたしたちを御心にかけ、常に目を注いでいてくださいます。
だからわたしたちは、主の平安に生きることができるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この年もあなたがわたしたちの主であってくださいますように。あなたが御言葉によって導かれる救いの道を喜びと感謝をもって歩み行くことができますように。あなたの栄光が豊かに現れ、わたしたちの住むこの社会、この国、この世界があなたの祝福に満たされていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン